2024年11月15日金曜日

技術と気象(5)人工衛星

1957年にソビエト連邦が人工衛星の打ち上げに成功すると、米国がすぐにそれに追いついて、宇宙での軍事技術競争が始まった。ロケット開発はもともとは弾道ミサイルのためで、人工衛星の開発も、宇宙からの地上の軍事偵察が目的の一つだった。しかし、宇宙から地上を見ると雲も見える。軍事偵察からすると、雲はそれを邪魔するものだった。しかし、一方で雲の把握は気象観測にとって重要だった。

時は冷戦の真っ最中だった。偵察機やスパイを送り込んだ相手国の情報収集が重要な手段となっていた。しかし偵察機U-2が撃墜されたり、スパイは相次いで逮捕されたりして、どれも決め手に欠いていた。

高高度偵察機 U-2
https://ja.wikipedia.org/wiki/U-2_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:1st_Reconnaissance_Squadron_Lockheed_U-2R_80-1068.jpg

そこで出てきたのが、人工衛星による気象観測である。これと軍事偵察は、手段・手法はほぼ同じであり、目的が異なるだけだった。人工衛星の平和利用のシンボルとして、衛星による気象観測が挙げられた。ちょうどコンピュータモデルを用いた気象予測も始まっており、全世界の気象データが必要になっていた。

アメリカは、人工衛星を用いて宇宙から世界中の気象観測を行うとともに、全世界の地上気象観測データを衛星通信などで交換することを画策した。1961年9月25日に、アメリカのケネディ大統領は、国連総会において衛星とそれを用いた通信網を用いて、気象通信網と気象予報に関する各国による協力を提案した(気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログ「国際政治とグローバルな気象観測網 」も参照)。これは別な見方をすると、人工衛星を用いた軍事偵察の平和目的の気象観測による合法化という面もあった。

ケネディ大統領の提案は国連総会で公式に採択され、それを受けて世界気象機関(WMO)は世界気象監視(World Weather Watch)プログラムの設立に動いた。これは1960年代に徐々に機能し始めて、気象観測だけでなく、それを集めるデータ交換のための世界初の全球規模での通信網ともなった。このプログラムは現在も機能しており、ウクライナや北朝鮮を含む全世界の気象観測データが、各国の主義主張を超えてほぼリアルタイムで全球規模で交換されている。気象予報モデルは全世界の気象データを必要とする。そのため、気象予報はこれによって大きな恩恵を蒙っている。

2024年5月 地上気温 月統計値の例(気象庁の世界の天候データツールより)。北朝鮮やウクライナ(黒海付近)を含めて、多数の観測報告があることがわかる。これは気候値用のClimat報であるが、予報用のSynop報もほぼ同じである。

静止衛星や極軌道衛星による気象観測は、広域の雲の可視化に威力を発揮した。海上のはるか遠くにある台風とその構造なども一目瞭然にわかるようになった。また、宇宙から見た雲画像は、天気予報番組などで今でも盛んに使われて、欠かせないものとなっている。

ただ、衛星による観測結果を気象予報モデルの入力として実際に使うのは簡単ではなく、長い期間にわたって気象予報の精度向上にはあまり寄与しなかった。衛星は主に地球からの可視光を含む放射量を観測しており、それを気象予報モデルの初期値として使うために格子点での気象要素に変換すること、が困難だったためである。

それを解決したのはデータ同化という計算機技術だった(このブログの「データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和 」を参照)。衛星で観測した放射量を、同化モデルを用いて気象予報モデルのための初期値を作成することが可能になった。現在では、気象衛星による観測結果は、気象予報に極めて重要な役割を果たしている。

2024年11月11日月曜日

技術と気象(4) レーダー

レーダーは、第二次世界大戦直前に発明されて、大戦中に発達した。当初の目的は空中にある航空機の検知であり、高速で移動する航空機の事前の把握・監視に大きな役割を果たした。ところが、レーダーは大気中にある水蒸気によるノイズに悩まされていた。しかし発想を変えると、これは逆にはるか先の雲などの把握に使えることがわかった。

大規模な雲などの気象擾乱は、航空機の飛行の安全に重大な影響を及ぼす。戦時中から航空機にレーダーが搭載されるようになり、悪天候域の回避にも使われるようになった。また、戦後に気象の把握に特化した気象レーダーが開発されて、地上や高所にも設置されるようになった。

 気象レーダーによる観測の概要(写真は東京レーダー(千葉県柏市))
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/radar/kaisetsu.html

レーダーや人工衛星がない時代、海上の台風の発見がどれほど困難だったか考えてみてほしい。海上には観測地点はない。台風の移動速度が速いと、数時間の内に天候が急変したかと思うと台風が海上から上陸し、大きな被害を蒙ることがあった。そのため、気象庁では南方定点に、台風監視用の船を一時期配置していた。船の乗組員は下手をすると台風に巻き込まれることも覚悟の上だった。それは台風から国民を守るという使命感によるものだった。

レーダを用いると、陸上からでも遠くの台風を検知できるだけでなく、その全容もわかる。「米海軍第38任務部隊の台風による遭難その1(2)」では、艦船上の初期のレーダーが捉えた台風画像を掲示している。

高い山頂のレーダーから遠くの台風を捉えることができれば、早くからその対策を取ることが出来る。伊勢湾台風の被害を契機に富士山にレーダーを設置する計画が持ち上がった。その経緯は、このブログの「富士山における気象観測(5)山頂へのレーダー設置計画 」に詳しく解説している。このプロジェクトは、国の威信をかけたものとなり、完成時には多数の報道とともに記念切手も発売された。また、後年NHKのプロジェクトXでも「「巨大台風から日本を守れ」 - 富士山頂・男たちは命をかけた」というタイトルで放映された。ただし、今では台風の監視は人工衛星に取って代わられている。

レーダーの気象に対する別の効果は、竜巻やダウンバーストなどの局地現象の把握である。これは極めて狭い範囲で起こり、発生してから短時間で消滅するため、この現象の把握は極めて困難だった。しかも、航空機の離着陸時には、ダウンバーストは安全に対する重大な脅威であり、事故も多発した。レーダーから発展したドップラーレーダーは、雲粒の移動速度や向きがわかる。それを用いることで、藤田哲也らはダウンバーストという現象を発見した。そして、それを用いることで、ダウンバーストによる事故を回避できるようになり、大勢の命を救うことを可能にした。このことは、このブログの「ミスター・トルネード 藤田哲也」で、詳しく解説している。

気象レーダーは、今では雨量観測と組み合わせて、ナウキャスト(レーダーアメダス)として集中豪雨の監視などに威力を発揮し、警報や大雨情報の発表の根拠の一つとなっている。雨雲の動きや強さは気象庁ホームページなどでリアルタイムで公開されており、豪雨災害の監視に大きな役割を果たしている。

 

ナウキャストで捉えた豪雨の例(平成26年6月29日16時)
https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kurashi/highres_nowcast.html

 (次は技術と気象(5)人工衛星

2024年11月6日水曜日

技術と気象(3) 無線と気球

19世紀末に、マルコーニらによって無線が発明されると、有線電信より情報の収集範囲が広がった。「世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治」のところで述べたように、電線のない僻地からの気象データの無線を用いた収集も計画された。しかし、無線の発明で本質的に重要なのは、ラジオゾンデの発明である。空中にあるものを研究するのは地上にあるものよりはるかに難しい。「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」のところで述べたように、19世紀の有人気球による上空の気象調査は、観測というよりむしろ冒険の世界だった。

20世紀初頭のゴム気球の発明(「リヒャルト・アスマン(その2)」参照 )は、気球自体が安価になって使い捨てが出来るようになっただけでなかった。気球には気象観測装置の観測結果を記録する自記記録装置が搭載されており、観測結果を知るには、落下場所を見つけてそれを回収する必要があった。それまでの気球の自記記録器は、放球地点より数百km先に落下するのが普通だったが、ゴム気球になって上昇速度が速まったため、破裂して比較的近くに落下するようになった。これは成層圏の発見に貢献したが、それでも自記記録器は回収する必要があった。その手間はばかにならず、しかもしばしば行方不明となった。1920年頃から航空機を用いた上層の気象観測も行われるようになったが、観測にかかる費用が高額だったため観測頻度は極めて限られていた。

それを変えたのが1930年頃に発明されたラジオゾンデである。この経緯は本書「9-4-3世界でのラジオゾンデ観測の発達」で述べたとおりである。これによって自記記録器を回収する必要がなくなり、またリアルタイムでの上空の気象観測が可能になった。これは技術的に見ると、リモートセンシングの始まりでもある。世界各地でラジオゾンデを用いた高層大気の観測網が構築されるようになった。この高層気象観測網による定期的な観測により、高層大気の規則的な振る舞いがわかるようになった。

 ラジオゾンデ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%87#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Radiosonde-wx-balloon.jpg

18世紀頃から20世紀はじめまでの地上気象観測網による気象学の成果を見てほしい。16世紀の哲学者フランシス・ベーコンは、観測による「自然誌」や「実験誌」の蓄積(つまりデータの蓄積)による帰納法を用いた法則の発見を唱えた。これによってベーコン主義者たちは、いろいろな科学分野でさまざまな法則を発見した。気象学も同様に各地に地上気象観測網が作られ、法則性を見つけるために、20世紀初めまで膨大な気象データが蓄積された。しかし、いくつかの気候学的、あるいは総観気象的な法則 ―例えば低気圧の風の回転やボイスバロットの法則― のようなものは見つかったものの、地上でははっきりとした法則性を持った現象はほとんど見つからなかった。

ところが、高層気象観測によって成層圏が発見され、さらに1930年頃から整備されたその観測網によって、上層大気中で地球規模で規則的に運動する超長波(ロスビー波)などが発見された(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績」参照)。そして、その運動を力学的に定式化することによって大気運動の解明が可能になった。また、大気の鉛直構造の定量的な把握によって傾圧構造などの低気圧の鉛直構造がわかり、低気圧の発達のメカニズムなども解明されるようになった。気象学は、気球と無線を用いて、それまで手が届かなかった高層大気を解明することによって、一気に発展することとなった。

 (次は技術と気象(4)レーダー

2024年11月5日火曜日

技術と気象(2) 電信

 19世紀半ばにアンペール、ヘンリー、モールスらによって電信機が発明された。これによって人の移動を伴わずに情報を瞬時に伝達できるようになった。つまり、情報の伝達速度が気象の移動速度を超えることが出来るようになった。これに気づいた気象学者たち、フランスのパリ天文台長のルベリエ、イギリス気象局のフィッツロイ、オランダの王立気象台長ボイス・バロット、アメリカのスミソニアン協会理事長のヨゼフ・ヘンリー(「電磁気学者ヨゼフ・ヘンリーと気象学」参照)らは、国内各地の気象を暴風警報のために電信で一か所に集めることを開始した。そのためには、観測方法や報告様式の決定、当時高額だった電報代の調整が必要だったが、それによって観測地点の気象が瞬時にわかるようになった。

イギリス気象局のフィッツロイ。彼はダーウィンを乗せたビーグル号の船長だったことでも有名である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AD%E3%82%A4#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Robert_Fitzroy.jpg

しかし、気象学にとって電信にはもう一つ大きな役割がある。それは情報の共有・配布である。電信で各地の気象状況を集めて嵐の襲来を予測できても、それが多くの住民や関係者に伝わらなければ意味がない。集められた情報から決定された警報は、該当地域に電信で送られた。当時最も実用性が高かったのは港の船舶に対する暴風警報だった。当時は港湾での警報標識の掲揚、新聞への掲載、役所、警察署などでの掲示が行われた。これは現代で言う一種のナウキャストである。

気象の情報はそれが現地に到達する前に発表されないと意味がない。この電信による情報の伝達と共有という近代技術によって気象予報は発達した。数千kmという総観規模(天気予報で用いられる天気図程度の範囲)の気象という一人の人間の目が届かない広域の現象を捉えて警報を出すには、気象学にとって電信という近代技術が不可欠だった。逆に言うと、その地での気圧計の変動などを用いたそれまでの気象予報の発達が遅々とした理由には、広域の状況を気象の移動を追い越して知るための情報伝達の技術がなかったことも一因だった。

そして、それは国内だけでなく、近隣の国々との気象情報の交換の必要性も生み出し、そのための国際組織である国際気象機関(IMO)の設立を促進した。IMOは1879年に設立されたが、政府間組織ではなかったために決議に拘束力がなく、気象情報の交換はなかなか進まなかった。しかし、第二次世界大戦後に、国連の専門機関である世界気象機関(WMO)が設立されると、無線や人工衛星の利用を含めた気象情報の世界規模での共有が一気に進んだ。それは気候変動社会の技術史(日本評論社)の公式解説ブログ「国際政治とグローバルな気象観測網」で述べたとおりである。

現代の予報では、この電信から始まった気象観測網の発展・拡大によって、大きな恩恵を蒙っている。 

(次は技術と気象(3)無線と気球


2024年11月2日土曜日

技術と気象(1)時計

17世紀後半に、ホイヘンスらによって機械式時計が発明された。これはひげぜんまいや金属歯車などを用いて、自動で時を刻むものだった。これはヨーロッパで精密機械が発達するきっかけの一つになったのではないかと思う。

ところで、当時気象測器も発展の途上だった。当時の気象測器は、温度や気圧、風速(風力)などのセンサーの指示を目で読み取る必要があった。気象観測は夜間を含めて定期的に長期間継続する必要がある。人が毎日一定時刻に測定器の前に行って、指示を記録することは大変な負担だった。記録をなんとか自動化したいと思うのは自然だった。

その自動化の試みに使われたのが機械式時計の仕組みの利用である。本書の「4-7 メテオログラフ」で書いているように、それを利用した自記気象観測装置を最初に考案したのは、クリストファー・レンである。彼はロンドンのセントポール大聖堂をはじめとして数多くの有名な建物の建築を手掛けた建築家だったが、幼い頃から機械式時計に興味を持っていた。彼は15歳の頃、父親宛に「回転シリンダー付きの気象時計(ウェザークロック)を作った」と手紙に書いている。しかし、どういう物であったのかという具体的な資料は残っていない。

 

クリストファー・レンの肖像画
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Christopher_Wren_by_Godfrey_Kneller_1711.jpg

これを引き継いだのが、レンの友人で王立協会のメンバーだったロバート・フックだった(ロバート・フックと気象観測を参照)。彼はフックの法則や顕微鏡を使ったスケッチであるミクログラフィアなどで有名である。フックは王立協会でさまざまな気象測器も考案していた。気象測器の発達の立役者の一人である。

彼はレンのウェザークロックを改良した。そして、振り子時計を利用したメテオログラフと呼ぶ気温、風向、雨量の自記気象観測装置を作った。ただ、屋外では使えなかったり、高額な上に記録結果を読み取るのに手間がかかったりしたため、この装置は広まらなかった。

フックが作ったウェザークロック

気象測器に限らないが、当時のヨーロッパにおいては、なんとか装置を機械化して自動化したいという強い熱意を感じる。このような熱意は、後の紡績機や蒸気機関の発明にもつながったのではないだろうか。ヨーロッパでは、細々とではあるが自記気象観測装置の開発は続き、さらに精巧かつ巨大化していった。1851年のロンドン万国博覧会には光学機械メーカーが作成した巨大な大気記録装置が出品され、1867年のパリ万国博覧会では、電気を動力としたものも出品された。それらには記録頻度を高めることによって、謎の多い気象を解明しようという思いも含まれていた。

しかし、時代は小型化の方へ進んでいた。1880年代に持ち運びできる簡単な構造で安価な自記温度計や自記湿度計、自記気圧計などが開発されると、それまでの精巧だが巨大で重いメテオログラフは廃れていった。

(次は、技術と気象 (2)電信