2025年12月20日土曜日

気象警報の伝達苦労の今昔

  気象学とは異なるが、気象情報の変化が激しい今日、警報伝達の難しさを述べておくのも良いかもしれない。日本での警報は、明治16年にクニッピングが始めた暴風警報に始まる(日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(4)参照)。しかし、危険な気象状況になりそうなことを、漁師などの多くの人々にわかってもらえるためにどう伝えればよいか、については当時から苦労があった。戦前は尋常小学校しか出ていない人々も多かった一方で、当時のいわゆる官吏は難しい漢語を使う傾向にあった。どうも警報に「海上不穏の虞(おそれ)あり」などの文言を用いたこともあったらしい。日露戦争の日本海海戦でその気象予報を行い、戦前に中央気象台台長を務めたことでも知られている岡田武松は、次のように述べている[1]

「虞れあり」なぞと云ふのは誠に六つかしい文字だ、大衆を相手とするものに、こんな途方もない六づかしい文字を用ひるのは決して策の得たものではない。

彼は気象情報をわかりやすく改善しようとしたが、それに対して、論語などの教育を受けた旧来の識者から抵抗を受けたようである。一方で警報に「風強かるべし」のような中途半端な文言を入れていたため、今度は風が強い地域では警報がしょっちゅう出ることになり、「狼来たれり」の二の舞をやってしまったとも述べている[1]

昭和9年の室戸台風の被害を受けて、昭和1091日から気象特報というものが設けられ、「風強かるべし」のような文言はそちらに移されることになった。これは今でいう注意報である。なぜ「注意報」にならずに「特報」という名称にした理由について、岡田は「注意報と云ふのは語路も悪いし、少しく驚かす意味も含んでゐて、面白ろくないと云ふ向きもあり」と述べている[1]。注意報という名称に、当時は抵抗があったことがわかる。これで当時の気象関する情報は、天気予報、気象特報、気象警報の3段構えとなった。

その後、幾多の変遷があったが、2004年(平成16年)の「新潟福島豪雨、福井豪雨」を受けて、防災気象情報の改善が加速した。2006年から指定河川洪水予報の改善が始まり、2008年には土砂災害警戒情報が全国的に発表されるようになった。2010年には各種警報も全国の市町村単位で発表されるように変わり、2013年から特別警報が新設された。2019年には防災行動としての警戒レベルの運用が開始され、2021年にはそれによる住民が取るべき行動が明確化され、各種気象情報などとリンクされるようになった。

防災情報は日進月歩の状態だが、その理解に追いつくのが大変になっている。しかもこれらは防災気象情報のメインストリームの部分であり、他にも記録的短時間大雨情報、竜巻注意情報、高温注意情報(熱中症警戒アラート)など、あまたの気象情報が出されている。他にも地震・津波や火山に関する情報もある。

岡田武松が述べているように、昔から気象関係者は気象に関する危険を誤解なく人々にわかってもらうことに苦心してきた。かつては異常乾燥注意報や異常天候早期警戒情報など強いニュアンス持つ名称の気象情報もあったが、今ではそれらの名称は変更されている。気象情報について名称の変更、情報のレベル化など幾多の改善がなされてきたが、人々の意識や行動も変わっていく。今後もこういった改善は続いていくのかもしれない。

 

  参照文献

[1]岡田武松、続測候瑣談、岩波書店、1937

2025年12月1日月曜日

降水量の測定は容易か?

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

レーダー降水量などを除くと、降水量(雨量)の測定は基本的には瞬間値ではなく、ある一定時間の積分値である。そのため、雨水を貯めれば何らかの量の測定は出来る。しかも蒸発などによる貯水後の変動は小さく、また工夫すればその影響を減らすこともそれほど困難ではない。そのためか、降水量の観測の歴史は古い(降水観測の歴史は本書の「4-6 雨量計」で述べたので、詳しくはそちらを見ていただい)。

 紀元前に既に降水量を観測した記録がある。また複数の雨量計を用いたネットワークでの気象観測を世界で最初に始めたのは15世紀の李氏朝鮮であり、そのことを1910年に発表したのは、当時の朝鮮総督府の気象観測所長だった中央気象台の和田雄治である[1]。なお「暴風警報の準備(2」で述べたように、日本での気象観測法を編纂した一人も和田雄治である。

こうやってみると、降水量の観測は順調に発達してきたように見えるが、実はそうではなかった。むしろ降水量の測定は、19世紀まで厄介な問題を抱えた観測の一つだった。

その問題のきっかけとなったのは、1769年頃のロンドンのヘバーデンの実験だった。彼は庭に雨量計を設置するとともに、自宅の煙突の上にもう一つ雨量計を設置した。さらに近くのウェストミンスター寺院の高い塔の上にも雨量計を設置した。彼は一年間測定を続け、煙突での降水量は庭の降水量の80%しかなく、さらに高い寺院の塔の降水量は、庭の降水量に比べて約50%しか示さなかったことを明らかにした。これによって、降水量は高度の関数であると思われた。

ヘバーデンはこの現象の原因を説明できず、雨粒が最後の数百メートルで成長して降水量が多くなったのではないかと推測した。この実験結果を読んだベンジャミン・フランクリンも、同僚への手紙の中で、雨は大気中を落下する間にその冷たさで自ら結露しているかもしれない、と示唆した[1]

各地で同様の高度を変えた観測が行われたようだが、結果は大きなばらつきを示したものの、概ね高度が高いほど降水量が減るという規則性を示した。そのため地上に落下する数百mの間にどうやって雨粒が成長するのか、が議論となった。

個々の雨粒が落下中にどのような挙動を示すのか(成長するのか)、という実験を行うことはほぼ不可能に等しい。19世紀頃から一部の学者は風の影響を指摘するようになったが、決定的な証拠はなかった。今から考えると信じられないかもしれないが、フランスのフランソア・アラゴやイギリスのジョン・ハーシェルなどの高名な科学者も加わって、雨粒が地上近くで成長する凝結条件などの議論が1世紀近く続いた。

この論争に決着をつけたのは、イギリスのウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ1835 - 1882)である。「えっ?」と思った方は経済学などにくわしい方に違いない。彼は「限界効用理論」という経済学で有名な基礎理論を唱えた一人である。また石炭枯渇などの資源問題、論理学においても大きな貢献を行った。 

ジェボンズの肖像写真
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Stanley_Jevons#/media/File:William_Stanley_Jevons_portrait_extract.jpg

  ジェヴォンズは自然科学にも深い関心を持っていた。この問題を解決するために、彼は模型を用いた障害物による風の実験を行い、その結果を1861年に論文で発表した。それは2枚のガラス板の間に煙を流して、障害物によって空気の流れがどのように変わるかを可視化したものだった。彼は、実験結果を次のように述べている[2]。

 空気の流れは、障害物にぶつかるとそれを飛び越える。そうすることで、隣接する平行な空気の流れに押し付けられる。これは直進方向から発散し、同様に次の流れに衝突する。しかし影響によって生じた圧力の上昇は、気流の速度を速めると同時にその厚みを減らす。・・・落下する雨粒は、重力と空気の運動の両方の影響を同時に受ける。それは長方形の対角線をたどる。この長方形の垂直な辺は雨粒の落下速度を表し、水平な辺は風によって与えられる速度を表す。言い換えれば、落下する雨粒の軌道の(鉛直方向からの)傾斜角の接線は、風の速度にほぼ比例して変化する。

簡単に言うと、長方形の底辺は降水量に比例するが、風が強いとこの底辺が雨量計の間口よりどんどん長くなるということである。彼はこう結論している[2]

障害物の頂上には他の場所よりも少ない雨しか降らず、余剰分は障害物の風下側に運ばれることが、かなり明確に示されていると私は思う。このメカニズムによって、高所における雨量の欠損現象が十分に説明されることに私は疑いを持っていない。
雨量計と風速との関係

雨量計周辺の風の流線の模式図。風の線の間隔が狭いほど風が強い。 

彼は実際の風を同時に観測した降水量の観測結果を引用して、「建物頂上に設置した雨量計と地表の雨量計で観測される降水量の差は風速に比例する」と明確に述べている。これによって、風が強い上空ほど雨量計で観測した降水量が減ることが明確になった。これは観測において、測定器が正確でもその観測手法によって測定結果が正しいとは限らないことと、その判断が如何に難しいかを示している。   

その後、19世紀末から王立気象学会のジョージ・J・サイモンズなどによって降水量の観測にどのような条件が適切なのかの実験が繰り返され、雨量計の設置条件が決定された。気象庁では雨量計を用いた観測に、例えば以下のような環境を推奨している[3]

降水の観測は,できるだけ風の影響がない場所とするのが理想である。これは雨滴や雪片が風の影響を受けて雨雪量計受水口に入らなくなるのを防ぐためである。・・・近くに建物がある場合は,建物による局地的な風の乱れの影響を防ぐため,その高さの少なくとも2倍以上,できれば4倍以上離れた位置に設置する。傾斜地や建物の屋上は観測場所としては,特殊な観測目的以外は,適当でない。雨雪量計そのものも風の影響を受けないようできるだけ低く設置する。

気象庁では基準に沿った場所に雨量計を設置するとともに、降水量の観測地点を見回って、周囲の樹木や建築物などの観測環境に変化がないかなどを定期的に確認している。

 (次は「気象警報の伝達苦労の今昔」)

参照文献

[1] Ian Strangeways, A history of rain gauges, Weather, Vol. 65, No. 5, 2010.

[2] W. S. Jevons, On the Deficiency of Rain in an elevated Rain-gauge, as caused by Wind, Philosophical Magazine and Journal of Science, Vol. XXI, 1861. 

[3]気象庁、気象観測の手引き、1998

2025年11月14日金曜日

別な科学で有名な気象学者-グレゴール・メンデル

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 初めに

グレゴール・メンデル(1822-1884)は、現在のチェコのモラヴィア地方の科学者で、遺伝に関する「メンデルの法則」で世界的に有名である。しかしご存じの方も多いと思うが、メンデルの法則を記した論文は生前は評価されず、彼は生物学者とはほとんど見られていなかった。彼が行った遺伝に関する研究の価値が認識されたのは、死後16年以上経ってからである。

彼の人生の大半は気象を研究する修道士であり、その後修道院長になったものの、自分のことを気象学者だと名乗っていた(モラヴィア大学設立請願書に気象学者としてサインしている)。もしメンデルの遺伝の研究が有名にならなければ、チェコのローカルな気象学者として位置づけられていただろう。逆に「メンデルの法則」が後にあまりにも有名になったので、彼の気象学者としての業績はあまり知られることがなくなってしまったようである。

 グレゴール・メンデルの写真

メンデルの生涯

幼少期から学生時代

ヨハン・メンデル(「グレゴール」は司祭職に就いてから名乗った)は、1822年にオーストリア領シレジア地方(現在のチェコ共和国ヒニツェ)のハインツェンドルフの農家の家庭に生まれた。彼は父の傍らで農業(植物の栽培、樹木の接ぎ木、養蜂など)を学び、小学校で自然科学を修めた。彼は小学校で最高の成績を修めて優秀であったため、農家の少年としては異例なことに教育の継続を勧められて、中等教育機関であるギムナジウムに進学した[1]

ただ彼は、16歳の時からストレス、絶望感、圧倒感を感じ、集中力の欠如、食欲不振、睡眠障害などを伴う精神的な病をときおり発症した。一種の「適応障害」だったのではないかという説もある[2]。同年(1838年)に彼の父親が事故に遭い、経済的に苦しくなったことも関係していたかもしれない。

彼は1840年にギムナジウムをともかくも卒業し、オロモウツにある大学付属の高等教育機関である哲学研究所で2年間学んだ。ここでも優秀な成績を上げ、ほとんどすべての学問で優秀と評価された。ギムナジウムでの教師の一人と、哲学研究所での物理学教授2人は気象観測を行っており、それが彼が気象学に興味を持つきっかけとなった可能性がある[1]。哲学研究所では精神的な病が再発し、彼はいったん退学したが、翌年復学した。その際の学費は、妹のテレジアが相続した父の財産をメンデルに譲ることによって都合した[2]

聖トーマス修道院とのつながり

哲学研究所で物理学を教えていたフランツ教授が、メンデルの優秀さに目を付けて、シレジア地方中心都市ブルノにあるアウグスチノ会の聖トーマス修道院の修道士に推薦した。21歳の彼はアウグスチノ会の修道士修練生となり、「グレゴール」と名乗った[1]。ここから彼の聖トーマス修道院との一生涯となるつながりが始まる。修道士は修行専門の修道僧とは異なり、説教や奉仕、教育活動の役割を担っていた。

聖トーマス修道院の教会。https://en.wikipedia.org/wiki/St_Thomas%27s_Abbey,_Brno#/media/File:Bazilika_nanebevzet%C3%AD_panny_Marie.jpg

 聖トーマス修道院長ナップは彼を買っていたが、彼が宗教的な仕事に向いていないことに気づき、彼を近くの高校の臨時教師として派遣した。彼は教師の仕事には向いていたようである。生徒からは慕われ、校長からは賞賛された。メンデルは常勤の教師となるため、1850年に教員試験を受けた。物理学の問題は見事な答えを書いたが、口頭試験で精神的な問題により不合格になってしまった[1]

ところが、この時試験委員をしていた元ウィーン大学物理学教授が、メンデルをウィーン大学に送るように進言し、メンデルは1851年から2年間ウィーン大学で学んだ。この時、ウィーン大学には「ドップラー効果」で有名な物理学者ドップラー植物学者フランツ・ウンガーがおり、メンデルに大きな影響を与えた[1]。この時彼は、ウィーン動物植物学会の会員に選ばれ、後に終身会員となっている。

教師と研究者の時代

ウィーン大学を終えてブルノに戻った彼は、中等学校で物理学と自然史を教えた。ここでも彼は教員試験に挑戦したが、やはり精神的な問題から失敗した。しかし、教師の資格がなかったことは彼に大きな影響を与えなかった。彼は教師の仕事をそのまま11年間続けた。そして、彼はそこで本格的に科学研究に没頭した。

一つはエンドウ豆の実験である。メンデルは1854年にエンドウ豆の実験の第一段階を開始し、数百株を栽培してその形質が世代を超えて一定であることを確認した。1856年から1863年にかけて、メンデルは遺伝に関する先駆的な実験を行った。しかし、彼が書いた論文は、当時はほとんど評価されずに埋没した。

二つ目は上記と同じ1854年に、彼は聖アンナ大学病院の医師パヴェル・オレクシクと出会ったことである。オレクシクは町の気象観測者でもあった。彼はブルノ自然科学協会で1848年から行っていた気象観測結果を発表し、メンデルはそれに興味を持った。そしてメンデルは修道院で行っていた気象観測を改善した。後述するように、この観測はオレクシクの死後もメンデルによって継続されるとともに、彼のさまざまな気象研究の元となった。

聖トーマス修道院長時代

1867年にの聖トーマス修道院長のナップが死去すると、その後任の修道院長にメンデルが就任した。しかしこの職は多大な領地を管理する多忙を伴った。また修道院長は地元の名士でもあり、モラヴィア地方のさまざまな学会の会員になるとともに、当地の銀行の副頭取も務めなければならなかった[2]。彼は自分の科学的興味を徐々に放棄せざるを得なくなった。しかし、修道院での気象観測だけは継続した。

さらに、オーストリア帝国が修道院に課す税制を変更したため、メンデルはその反対運動にも身を投じた。当局との長い論争で多くの友人や同僚と疎遠となり、彼の健康状態は悪化した。1883年末には、彼は腎不全とうっ血性心疾患を患い、気象学的観測を行うことができなくなった。彼は188416日に61歳で息を引き取った。修道院長は要職でもあったので、その葬儀は政府の関係者も参列して盛大に行われた。葬儀の際に演奏されたオルガンは、有名な作曲家であるレオシュ・ヤナーチェクが弾いた[2] 

メンデルの気象学

気象観測

オレクシクの影響を受けて、メンデルは1857年に聖トーマス修道院で定期的な気象観測を開始した。それによって、オレクシクが行っていた観測網のデータを自身の観測で補完した。やがてメンデルの気象学者としての名声は高まった。1868年にメンデルが修道院長に選出されると、彼はオーストリア気象学会の会員となり、1878年には病になったオレクシクの代わりに、オーストリア帝国気象観測網のブルノ公式観測官の職務を引き継いだ。オレクシクとメンデルによるブルノの気象観測記録は、チェコ共和国で気温はプラハに次いで2番目、降水量は最も長いものとなっている[5]

メンデルは修道院の敷地内の様々な場所に測器を設置し、ウィーンの中央気象研究所の公式要件に従い、気温、降雨量、風向、気圧、日照時間、地下水位、地上オゾン濃度を記録した [1]。オゾン測定には「シェーンバイン法」を用いた。これはヨウ化カリウムを染み込ませた紙片で、オゾン存在下で色が青色に変化することを利用したものである。日本でも気象観測の初期にはこの手法でオゾン観測が行われている。

嵐や竜巻の解析

メンデルは有名な1866年のエンドウ豆に関する論文より前に、気象学に関する論文をいくつか発表している。その最初の論文は、18578月に87日にブルノで発生し、大雨を伴った雷雨の観察について述べたものだった[3]

1863年には「ブルノにおける気象条件の図表による概観に関する所見」が、ブルノ自然科学協会の紀要に掲載された。これはオレクシクの観測による1848年から1862年までの気温、気圧、風向・風力、雲量、降水量、風向の記録とその解説を記載したものである。さらに郊外とブルノ市内の気温を比較して、ブルノの気温が都市開発による熱で高くなっていることを指摘した。これはオーストリア帝国において、ヒートアイランド現象を科学出版物で初めて発表したものとされている[1]

メンデルはブルノで起こった竜巻も分析した。18701013日の午後、竜巻が聖トーマス修道院の上空を通過した。メンデルは幸運にもその時に修道院の自室にいて、観測した。メンデルは竜巻の形状、進路、速度、そして特に注目すべきは回転方向を詳細に記録した。それによると竜巻は時計回りであり、北半球で通常見られるパターンとは逆だった。メンデルは竜巻の原因を二つの気流の衝突によると推測した。これは50年後の1917年にドイツの気象学者ウェゲナー(大陸移動説で有名である)が提唱した竜巻の成因と本質的に同じである[1](なお、ウェゲナーについてはケッペンについて2」を参照)

大気汚染の観測

また別の論文では修道院と郊外地域でのオゾン濃度を比較している。そしてブルノのオゾン濃度が低いのは、工場の煙などによる大気汚染による煙霧の影響だと結論している[1]。この時がどうであったかはわからないが、工場からの煙には一般にオゾンの発生源となる物質とオゾンを壊す粒子状物質の両方が含まれる。そのため、煙によってオゾンが減った可能性はある。

気象予報などへの関心

18771月にウィーンの中央研究所が電信による気象予報の発表を開始すると、メンデルはモラヴィアにおける農業のための気象予報の価値を熱心に推進するようになった。彼は農業協会を代表して州知事に提言書を提出したり、オーストリア農務省に同様の提言を送付した[1]。また自ら気象予報を行ってみたりしたが、これはあまり成功しなかった。彼は当時の知識では気象予報を出すには不十分であることを自覚していた[4]。そのほか、オーロラや太陽黒点の調査も行っている。

前述したように、晩年になると多忙や病気により科学的な活動は減っていった。その中で、気象観測だけは死ぬまでウィーンの中央研究所へ報告し続けた。

 

メンデルは農家出身であり、農業の振興を基本に考えていたと思われる。彼のエンドウ豆の遺伝実験も気象観測も、元をたどれば農業振興につながっていた。当時彼によるエンドウ豆実験の重要性は認識されなかった。しかし、彼は聖トーマス修道院長としてブルノでは優れた市民指導者であり、主要な気象学者として知られていた。今日では彼は遺伝学の父として世界的に知られるが、反対に気象に関する緻密な分析や記録はほとんど忘れ去られており、現在その再発見が続けられている。

 (次は「 降水量の測定は容易か?」)

参照文献

[1] Mark Alvey, Weatherman Gregor Mendel Plant hybridizing was something of a sideline for this polymathic priest. https://doi.org/10.11118/978-80-7509-904-4-0158

[2] Daniel L. Hartla, Gregor Johann Mendel: From peasant to priest, pedagogue, and prelate, PNAS Vol. 119 No. 30, 2022.

[3] MICHAEL MIELEWCZIK, JANINE MOLL-MIELEWCZIK, MICHAL V. SIMUNEK, UWE HOSSFELD, A previously unknown meteorological publication of Gregor J. Mendel from 1857, FOLIA MENDELIANA 58/2, Supplementum ad Acta Musei Moraviae CVII, 2022

[4] Rožnovský, J., G.J. Mendel´s meteorological observations, Mendel a bioklimatologie. Brno, 3. – 5. 9. 2014, ISBN 978-80-210-6983-1

[5] Jarmila Burianová Kevin Francis Roche, Gregor Johann Mendel Meteorologist, https://www.sci.muni.cz/en/current-news/gregor-johann-mendel-meteorologist

  

2025年11月3日月曜日

気象学者でもあった著名な科学者-フランシス・ゴルトン

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

雲形を考案したイギリスの薬剤師ルーク・ハワードや電磁気学者であったアメリカのジョゼフ・ヘンリーのように、19世紀までは気象学を専門としない気象学者が数多くいた。ここで述べるイギリスのフランシス・ゴルトン卿(Sir Francis Galton)の場合は、当初気象学の研究を行っていたが、その後、統計学と優生学の方に興味が移ったパターンだった。

現在では、ゴルトンは優生学の創始者として、あるいは統計学の専門家として有名である。後述するように、彼の優生学は一世を風靡したが、それは後年さまざまな問題を引き起こした。その影に隠れてしまったのか、気象学における彼の功績が顧みられることはあまりない。ここでは、ゴルトンの気象学に光を当てる。

フランシス・ゴルトンの写真

ゴルトンの人生

英国人の気象学者であるフランシス・ゴルトンは、18222月にバーミンガムで生まれて、19111月にロンドン郊外のサリーで亡くなった。ゴルトンはチャールズ・ダーウィンの 「半いとこ」であり、ダーウィンと同じ祖父(エラマス・ダーウィン)を持つが祖母は異なる。祖父は医師で詩人である。

ゴルトンは17冊の著書を含む300以上の出版物を出しており、中でも『天才の遺伝(Hereditary Genius)』は最も有名なものの一つである。ゴルトンは独創的で明晰な頭脳の持ち主で、彼が見るほとんどすべてのものに新しい光を当てた。ダーウィンを見てもわかるように、彼の家系は知性が高かったと言われている。彼はものごとを可視化(数値化)することによって、その状況や傾向を明らかにしようとした。それが彼の気象学にも現れている。

ゴルトンはいとこであるダーウィンの自然淘汰論(進化論)に影響を受けたのか、後に人間の遺伝的性質に興味を持った。彼は「優生学」という言葉を作り、彼の遺伝における研究のほとんどは、人間優生学を支援するために行われた。それが後年の学問としての優生学の発展につながった。彼が創始した優生学によって、彼の死後にホロコーストが行われ、日本を含む国々で優生保護法のような施策が行われた。これは彼一人の問題というよりは科学のあり方全体の問題でもあるかもしれない。

測れなかったものを測る

ゴルトンは幅広い好奇心を持っていたことは確かである。彼は祖父と同様に医師の道を目指したが、当時の手術のような荒療治は性格的に不向きであることを悟り、ケンブリッジ大学で数学を学んだ。父の死後に若くして莫大な遺産を手にしたこともあり、世界中を探検して回った。

その後、生活費を稼ぐ必要がなかった当時の資産階級の一部がそうであったように、彼は科学に没頭するようになった。彼はいろんなものを測定(数値化)することに強い興味を持った。それは測定器で客観的に測定できるものに限らなかった。それまで誰も思いつかなかった多くの事象を数値化しようとした。例えば彼は1884年に2人の人間がお互いにどの程度好意を抱いているかを測定する手段として「魅力測定器」というアイデアを思いついた。今でいうマッチングアプリのようなものだろうか。また、講演時の聴衆の熱狂度に現れる姿勢から「退屈指数」を考案した。さらに各都市の女性の容姿を分析して、どこに美人が多いかなども分析しようとした。これらには主観がかなり含まれた[5]

客観的な分析としては、ゴルトンは祈りの力について科学的な調査を行った。彼は「祈る人が祈らない人よりも頻繁に目的を達成するかどうか」を明らかにしようとした。1872年、彼は 「祈りの効能に関する統計的研究(Statistical Inquiries into the Efficacy of Prayer)」を発表した。これによって、祈りによって結果に測定可能な差は生じないことを明らかにした。

気象学での功績1―天気図の発展

ゴルトンは、気象学の進歩が遅れているのは、気象観測の結果をコンパクトな図にして俯瞰することが不足しているためと考えた。そのため彼は、総観規模の気流や天気を合理的に図上に表現することを研究した。彼はヨーロッパ内の各気象観測所の天候状況を一つの図で表せるような工夫を行い、186112月の毎日のヨーロッパの天気図を作成し、これを1863年に「メテオグラフィカ」として発行したさらにこれには、気圧の分布を13回碁盤目上の図にしたものが含まれた。これは平均気圧からの差を格子上にシンボルで示したものだった。


ゴルトンが作成したメテオグラフィカ(総観気象図)。18611211日のもの。山形の膨らみは風向(○は静穏)。四角内の模様は天候を示す。Galton, METEOROGRAPHICA, Macmillan, 1863より。なお、原本のコピーはGoogle booksから公開されている。

当時、アメリカでの暴風雨論争などを経て、嵐は低気圧域に吹き込む旋風(サイクロン)であることがわかってきていた(サイクロンの語源については「「サイクロン」という言葉について」を参照)。嵐は顕著な気象を伴い能動的であるため、現象として意識に上りやすい。しかし、嵐以外の気圧構造には人々の関心はあまり向かなかった。ゴルトンは気圧分布と風向から、嵐をもたらすサイクロンに対応して、逆に気圧が高い反サイクロン(anti-cyclone: 逆旋風)があることを初めて示した。これは日本では高気圧と訳されている。

1870年以後はゴルトンは気象学の仕事をやめて後述する優生学の研究に打ちこんだため、彼の優れた総観天気図の仕事は途絶した[2]

気象学での功績2―連続的な気象観測

ゴルトンはキュー観測所(Kew Observatory)で働きながら、気象の観測結果を連続して記録するための装置を考案した。それまで行われていた人間が1日に数回、定時で気象を観測して結果を記帳するやり方だと、その間に起こったことは記録されない。彼は感光紙を用いて、観測結果を自動で連続的に記録できるようにした。彼は7か所の気象観測地点の風向、風速、乾・湿球温度、気圧、降水量などの7要素の連続記録を、時間軸をそろえて同一の座標面上に精巧な銅版(リトグラフ)を用いて印刷した。そして、その印刷記録を「メテオグラム」と命名し、これはロンドン気象局から季刊気象報として1869年から12年間にわたって発行された。

一般に公表された定期的な気象資料としては、これはそれまで類をみないほど時間分解能が高いものだった。これは当時は知られていなかった前線の通過などによる、短時間での気象の急変を捉えていた。しかし、この観測結果を用いた詳しい分析は行われなかった。英国気象局の長官で気象学の大家であったネイピア・ショー卿は、後年に次のように述べている[2]

もし,彼等(気象学者たち)がこの時に最後まで正道を踏んで天気図と自記記録を併用しながら分析していたら,前線の学説を1919年でなくて, 1869年に発表できたことであろう。

この1919年は、ノルウェーの気象学者ヤコブ・ビヤクネスが前線を発見した年を指している(詳しくは「前線を伴った低気圧モデルの100周年」を参照)。

気象学での功績3―新聞での天気図の発行

英国気象局のフィッツロイは、1861年からロンドンで気象予報を開始した(フィッツロイと天気予報(2参照)。それは各地で観測した天候現況とその進行をそのまま時空間的に外挿して予測したものだった。ただしドイツの気象学者ドーフェによる悪天は気流の衝突によって起こるという考えを取り入れてはいた。しかし、それは定理とか法則のようなものではなく、「気象の進行方向において時間とともに同じ状況が起こるだろう」という漠然とした概念だった。政府の仕事としてあいまいな概念だけに基づいた気象予報を行うことは、当時似非科学が流行していたこともあり、科学の信用を損なうとして科学界から反発を招いた。

1865年にフィッツロイが自殺した後、フィッツロイが行った警報と気象予報の調査が行われることになり、その委員会の委員長をゴルトンが務めた。そしてその委員会で気象予報の廃止が決まった。当時の科学的状況では、仕事として気象予報に手を染めると言うことは、科学者にとって自分の科学者生命を絶つことに近かった。

しかし1875年に、ゴルトンはこの状況に一計を案じた。問題を引き起こし得る気象予報を行わず、前日の天気図を作成してそれを新聞に毎日掲載することにした。これならば過去の事実なので、誰も文句を言えない。天気図に慣れてくれば、一般の人でもそれを見て翌日(つまり今日)の天候がどうなるかを推測することはそれほど難しくない。それが当たるかどうかは別問題であるが、外れても自己責任だった。

この天気図は1863年に発行した天気図と異なり、現在のものとかなり似ていた。それには気圧の異なる地域の境界が点線で示され、風向は矢印で示され、風速に応じた矢羽根が付けられていた。また各地の気温(華氏)や沿岸海上の様子も説明されていた。

ゴルトンは187541日からロンドンのタイムズ紙に前日(331日)の天気図を掲載した。これは一般の人々へ、自分が住んでいる上空以外でどういう気象が起こっているのかという気象の啓蒙にもなったのかもしれない。新聞でのこの天気図は大人気となり、他の新聞社も一斉に掲載を始めた。それは今日でも多くの新聞で続いている。

ゴルトンが187541日に発行した天気図

統計学などでの功績

ゴルトンは多くの物事に興味を持っており、徐々に気象学からは手を引いた。彼はデータを分析するための統計理論とそのための手法を発展させた。

彼は、指紋は個人によって異なることや、そのアーチ、渦巻き、ループなどのパターンは生涯にわたって安定していることを初めて示した。そして犯罪現場に残った指紋を分析すれば、人物を特定するのに使えることを初めて実証した。この考えはすぐにロンドン警視庁(スコットランドヤード)に採用され、現代においても事件における指紋の照合に活かされている。

ゴルトンは、平均的な「群衆の知恵」を最初に認識した人と言われている。彼は家畜のある品評会に出席した。そこでは村人が牛の体重を当てるよう求められ、800人近くが参加した。ゴルトンは彼らの推測を見たところ、ほとんどすべての推測が間違っている一方で、それらの推測値の平均値はほぼ正しいことを発見した。

当時、統計学としてはベル曲線やガウス分布が知られていたが、それは天文学などにおいて観測の誤差を示すためのものだった。1835年にベルギーの統計学者アドルフ・ケトレは、この「誤差の法則」が多くの人間の身長や胸囲などにも当てはまることを発見し、初めて統計的に「平均的な人間(l'homme moyen)」像を示した。アドルフ・ケトレは気象学者でもある。

ゴルトンはこのガウス分布の適用を逆転させて、初めてばらつき自体の重要性を示した。そして、これが生物学的あるいは心理学的研究に新しい方向性をもたらした。1877年、彼は、ある親子の身体的特徴の間の関係を表すために、「回帰(regression)分析」という数値的手法を発表した。それが主に身体測定データの解析につながった。回帰分析とは、ある事柄と別の事柄(例えば子供の身長と両親の身長、あるいは個人の体重と身長)との関係という曖昧なものに、それを予測する方法を提供するものである。

1888年にはゴルトンはさらに、そのような曖昧な関係の「強さ」を測る手法を開発した。その手法は、雨量と作物の収穫量のように、関係するものが異なる種類であっても適用できるものである。彼はこのより一般的な手法を 相関関係と呼び、その程度を「相関係数」として数値としてを計算する最初の手段を提供した。

ゴルトンは以前の回帰分析の研究から相関係数を示す記号に「r」を使用し、彼はこの係数を-1.0から+1.0までの小数として表現する方法を導入した。これは現在でも使われている。彼はばらつきの尺度として四分位範囲を使った。しかし、これは弟子であるカール・ピアソンによって標準偏差に置き換えられた[1]。この考え方を利用したものは、今では単に「偏差値」と呼ばれて、学校においてテストの成績の分析などに欠かせないものとして利用されている。

それまでの科学は、決定論的な原因と結果を持つ法則に限定されていた。これは、複数の原因がしばしば雑然と混ざり合う生物学の世界などでは見つけにくい。ゴルトンのおかげで、科学は生物学などにおいて統計的手法を尊重するようになった。医学や薬学において施術や薬剤の効能や副作用に関する統計的手法は、現代の医療に欠かせないものである。

優生学の創設

従兄弟であるチャールズ・ダーウィンが1859年に書いた自然淘汰の理論である「種の起源」を読んだことが、ゴルトンを「まったく新しい知識の領域」に導き、彼の遺伝研究への道を開いたようである。ダーウィンは、農家がより良い系統を作るために家畜化した動植物の品種改良を例に挙げた。おそらく人間の進化も同じように導かれるだろうとゴルトンは結論づけた。

ダーウィンが自然淘汰を説明するために、主に生物の身体的特徴の進化について考えていたのに対し、ゴルトンは才能や美徳のような精神的属性にも同じ遺伝性の論理を適用しようと考えた。またゴルトンは、個人の身体的特徴を数値化すれば、出身地、居住地、職業、人種などを超えて、人間を比較できると考えた。彼は1884年のロンドンでの国際健康博覧会で「人体測定研究所」を設置した。彼はそこで、訪れた一般市民の身体的特徴や能力に関するデータを収集した。

ゴルトンは、人間の才能は「天性なのか育ちによるものなのか」をはっきりさせようとした。植物や動物に関するさまざまな遺伝に関する研究による特性の傾向を人間にも当てはめた。そして、人間を向上させる原理を発見したと考えた。これは持って生まれたものを重視する考えであり、選択的交配によって人類を 「改良」するという考えである。彼はギリシャ語で 「良い血統」を意味するユージェニックス(優生学)という言葉を作った。

1900年、グレゴール・メンデルによるエンドウ豆の遺伝に関する研究が再評価されるようになると、似たような考えである優生学の名声は一気に高まった。ちなみに、メンデルも気象学の研究を残している。ゴルトンによる優生学は、彼の地位やその科学的説得性によって多くの科学者が共有するところとなって発展した[4]。さらに彼の死後、優生学はそれを用いた政治へと広がっていった。その結果は、大勢の知るところである。

現在において、優生学に基づいたホロコーストや優生保護法などを断罪することはたやすい。しかし植物や家畜などについては、現在においても品種改良によっておいしいもの、成長が早いもの、病気に強いものなどの人間に都合の良いものが次々に生み出されている。また人間についても、出生前遺伝子検査と選択的妊娠中絶の結果、ヨーロッパではダウン症児の出生数が半減したと言われている[3]。さらに「胚選択」という遺伝子技術によって、両親の精子と卵子の中から最も優れた特徴を持つものが母親の子宮に移植される技術も研究されている[4]。これは将来のデザイナーベイビーへの道を開くかもしれない。これらはゴルトンが創設した優生学の発展形といえるのではなかろうか。

ゴルトンは良くも悪くも人類を変えた一人といえるのかもしれない。現在行われている遺伝子操作が人類にとって本当に良かったかどうかの歴史的判断には、まだまだ時間がかかると思われる。

(次は「別な科学で有名な気象学者-グレゴール・メンデル 」) 

参照文献

[1] ROGER THOMAS, Encyclopedia of Statistics in Behavioral Science, John Wiley & Sons, Ltd, Chichester, 2005, ISBN-13: 978-0-470-86080-9
[2]
 斎藤直輔、天気図の歴史、東京堂出版、1982
[3] Gunderman, Francis Galton pioneered scientific advances in many fields – but also founded the racist pseudoscience of eugenics, https://theconversation.com/francis-galton-pioneered-scientific-advances-in-many-fields-but-also-founded-the-racist-pseudoscience-of-eugenics-144465
[4] Jim Holt, 2005, MEASURE FOR MEASURE, https://www.lindahall.org/about/news/scientist-of-the-day/francis-galton/
[5] Dan Maier, 2011, Francis Galton: Measuring the immeasurable, Significance, The Royal Statistical Society, September 2011, 122-123

 

 



2025年9月29日月曜日

アリストテレスの気象学

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  


 1.     生涯

アリストテレスは古代ギリシャ時代最大の哲学者あるいは思想家である。万学の祖と呼ばれるほどに彼の考察した分野は広い。ここでの解説は彼による自然哲学における気象学とそれに関連したものに絞る。ただし彼の気象についての考察には、現代から見ると明らかに間違っているものもある。ここではその正誤について一つ一つ評価しない。ただ彼が気象を、自然哲学の中でどのように一貫した説明を行おうとしたのかをわかってもらえれば良いと思う。

アリストテレスは、紀元前384年にギリシャのテッサロニキから東に55 kmほどスタギラで生まれた。彼はアテネに移り、17歳でプラトンが設立したアカデミーに入った。そこで学者としての名声が高まった彼は、後にアレクサンダー大王となるマケドニアの若き王子アレクサンダーの家庭教師に任命された。これには、アリストテレスの父親がマケドニアの君主の侍医であったことが、この任命につながったと考えられている。

紀元前335年、アレクサンダーがマケドニア王となると、アリストテレスは再びアテネに移り、紀元前323年にアレクサンダーが亡くなるまで、彼はそこで教鞭と執筆活動を行った。その後、彼は神々を侮辱したとされてアテネでの立場が悪くなった。彼はアテネからの退去を余儀なくされてカルキスに移り、翌年そこで62歳で亡くなった[3]

 

アリストテレスの大理石製の胸像。紀元前330年頃のリシッポス作ギリシャ青銅原型に基づくローマ時代の複製品。マントは後世の追加品。
https://en.wikipedia.org/wiki/Aristotle#/media/File:Aristotle_Altemps_Inv8575.jpg 

アリストテレスは帰納的、体系的、実践的思考の偉人であり、出来事や証拠を整理する能力において比類のない人物だった。彼はアカデミーでプラトンの思想に多大な貢献をし、哲学体系の開発、進化、応用において決定的な影響を与えた。後述するようにアリストテレスは、「気象論(メテオロロジカ)」を書いた。これは気象学を体系的に論じた最古の文献であり、その後2000年以上にわたって気象理論の権威としてとして揺るぎない地位を保った。西洋文明における気象学の教科書は、17世紀末までアリストテレスの「気象論」に全て基づいていたと言っても過言ではないほどである[1]

なお「気象論」を含むアリストテレスの著作の変遷について述べる。アリストテレスの多くの著作は、エジプトのアレクサンドリア図書館に所蔵されていた。西暦641年にアレクサンドリアがアラブ人によって占領されると、それらはトルコのアンティオキア図書館に移された。アンティオキアも征服されると、アレクサンドリア出身の古代ギリシャ哲学の研究者のほとんどはイスラム教に改宗し、その多くが当時イスラム圏だったスペインに移住した。そこで彼の著作はアラビア語に翻訳された。

レコンキスタなどによってスペインが徐々にキリスト教圏に戻ると、彼の著作は今度はラテン語に翻訳された。12世紀以降、ヨーロッパ各地に大学が設立されると、アリストテレスの「気象論」は教科書として採用された。このためアリストテレスの気象論は、体系的な知識として権威を持って普及した。彼の見解はキリスト教とイスラム教の両方によって取り入れられ、長きにわたって自然科学の研究の基礎となった [3]

2.    宇宙モデル

アリストテレスの気象学は、彼の宇宙モデルとも大いに関連している。彼はエウドクソスの球形の宇宙体系を受け入れていた。彼が書いた「気象論(メテオロロジカ)」の基礎は、宇宙体系から導かれる基本理論に基づいている。アリストテレスの宇宙体系は、星や惑星の動きを同心円の球体で説明するものである。地球はそれら同心円の天体運動の中心とされ、それによって地上から見える天体の動きを説明した。

アリストテレスは地球を含む宇宙を大きく2つの領域に分けた。これは二元的宇宙像と呼ばれる(「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)。つまり月とそれから先の永久不滅の「天上界」と、月より内側の万物が流転する「地上界」である。そして学問を、天上界のことは天文学、地上界のことは気象学という領域で区別した。そのため、彼の気象論では、海や地震に関する考えも含まれている。

そして「地上界」の様々な現象は、「天上界」の天体の運行に影響されると考えた。潮汐が太陽や月の位置によって影響されたり、曇っていても太陽の方向を向く花があったりすることを考えると、これは当時極めて説得力があった。この地上界は天上界によって決まる、という考え方を私は「地上事象天因説」と呼んでいる。この天上界の地上界事象への影響は,後にプトレマイオスが書いた「テトラビブロス」によって占星学や運命論の元となった。プトレマイオスの占星術による運命論的な考え方は、「誕生日の星座による占い」や「~の星の下に生まれた」のような表現のように、現代においても広く浸透している。この考えは元を辿ると「地上事象天因説」から始まっている。

また天上界は永久不変とされたため、彗星や流星、オーロラなどの突然現れたり不規則な動きをしたりする現象は、地上界の気象に組み入れられた。この考えはそれらの正体がはっきりする19世紀まで続いた。一方で地上界の考えはエンペドクレスの「四元素説」に基づいており(「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学」の「5. エンペドクレス」参照)、地上界は4つの元素(地、水、空気、火)で構成されて、互いに入れ替わると考えられていた。

アリストテレスは、もう一つ「エーテル」という物質についても言及している(化学物質のエーテルとは別物)。これはアナクサゴラスの時代から唱えられていたもので、当時天体が存在する領域はエーテルで満たされていると理解されていた。古代ギリシャ語では「エーテル」は燃える、あるいは燃やすという語とも関連しており、当時のエーテルは火や炎とはっきり区別されていないという説もある[3]。当時、揺らめく炎は摩訶不思議な物体だっただろう。このエーテルは、性質を変えながら19世紀末まで物理学の中で存在の有無が議論された。

3.    気象論

アリストテレスは、紀元前340年頃に「気象論(メテオロロジカ)」という本を書いた。ギリシャ語の「メテオラ」は「空中に浮遊するもの」という意味であり[3]、このメテオロロジカが英語の気象学(メテオロロジー)の語源となっている。上述したように、彼の気象論に含まれるテーマは非常に幅広い。雨、雲、露、雪、雹、雷、稲妻、旋風、雷光、光輪、太陽柱、幻日などに加え、川や泉、海岸浸食や沈泥、地震、海の起源、場所、塩分などについても述べている。

アリストテレスは、自ら現象を考察した部分も多いが、自分自身の考察の限界も踏まえており、現象によっては他者の観測に頼ったり、他者の理論を用いてそれを吟味したりもしている[2]。そのため、彼の「気象論」は彼の理論だけでなく、かつての自然哲学者、歴史家、詩人、そして一般的な経験から集められた事実の集積でもある[1]

彼の気象予報に関する考えはエジプト人に由来するものが多く、風の分類などは、バビロニアに由来すると考えられている。しかし、雹などの優れた独自の解釈や理論も多い。その際に、彼は類似性(アナロジー)を用いて現象を説明することも試みている。彼の類似で有名なものは、地球の働きと生物の働きの類似性である。生物が食べ物が消化されるときに呼気と熱が発生するように、地球が太陽の暖かさにさらされると熱と後述する蒸発気が発生すると考えられていた。

アナクサゴラスをはじめとする以前の自然哲学者たちは、気象現象に関する思索において、その手法の大部分は観察に基づいた帰納的なものだった。しかし、アリストテレスの気象学は、観察したものの説明に演繹的な手法を採用した。つまり、彼はあらかじめ気象学の演繹的な仮説理論を持っており、その理論に基づいて様々な気象現象を一貫するように説明した。その際に彼は、まず他人の理論を紹介して、それからそれに反論することで自分の理論を紹介する手法を好んだ[1]。最初に記したように、彼の気象論はその後近世に至るまで西洋社会で権威を広く持ち続けた。以下で彼の気象論による気象を説明する。 

アリストテレスの気象論(メテオロロジカ)の表紙

4.    蒸発気

アリストテレスの気象に関する考えには、アナクシマンダーによる「蒸発気(exhalation)」という概念を用いている部分がある(「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学」の「2.アナクシマンダー」参照)。これは太陽によって暖められた大地から湧き出す(大地が吐き出す)もので、2種類ある。ひとつは「湿った蒸発気」で、これは水蒸気として雲や雨などの現象をもたらす。「湿った蒸発気」(地表の水分)は太陽からの熱によって暖まって上昇する。すると上空で冷えて凝結して雲となり、雨となって地球に戻ってくる。これは太陽熱による水循環を意味する。一方で「乾いた蒸発気」は、天上界の星々の影響を受けて、後述するように風や雷の元となる。


 湿った蒸発気と乾いた蒸発気の模式図

5.   

アリストテレスは、アナクシマンダーらによる風は空気の流れである、という意見に強く反論し、風を空気の流れとはしなかった。アリストテレスは風の起源(始原)は乾いた蒸発気であると主張した。そして次のように述べている。

われわれ一人一人のまわりに散っているこの空気が、ただ動くことによって流れるものとなり、運動の始まりがどこからであろうと風となる、という言い方はまちがっている。われわれは、水が流れているということだけでそれを川と呼ばず、またそれがどんなに大量であろうとそれだけで川と呼ばず、むしろ源泉から流れるものを川としなげればならない。そして風についてもこれと同じことである [4]

彼は風を、山から下へ徐々に蓄積された水の流れを表す川になぞらえて、次のように説明した。

風は、大地が濡れると川ができるのと同じように、少量の蒸発気が徐々に集まって形成される。というのも、風はその発生地では最も弱いが、発生地から遠ざかるにつれて強く吹くからである。極のすぐ近くの地域は、冬には穏やかで無風であり、この風は、そこではわからないほどに穏やかに吹くが、遠くへ行くにつれて強くなる[1]

またアリストテレスによれば、乾いた蒸発気は、「地上事象天因説」によって天上界の影響を受けて風の元となった。そのため、天上界の影響により風は上空から発生しなければならないとした。このことは、風を地表で感じる前にその存在が上空の雲の動きによってわかる、という事実で裏付けられるとしている。

さらにアリストテレスは風向を12等分した。そして彼は、風はほとんど北か南から吹いてくるとした。 

アリストテレスによる12の風向。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aristotle_wind_rose_%2845-degree%29.jpg

 彼によると風の説明は次のようになる。太陽の日周運動の北側と南側は放射を受けにくいため寒くなり、そこで雲ができる。したがって降水は、太陽の日周運動の北側と南側で降る。そこで地球と太陽からの熱が地表を乾燥させて、乾いた蒸発気が出来る。その乾いた蒸発気が風の元となるため風は北か南から吹いてこなければならない。そして、天上界の自転の影響を受けて、実際の北風や南風は多少斜めになるとも述べている[3]。

6.    雲と霧

湿った蒸発気と乾いた蒸発気の2つが結合して雲が発生し、結合の際に乾燥した蒸発気の一部は雲の中に閉じ込められるとした。そして、この閉じ込められた蒸発気は雲が衝突すると騒音を出しながら絞り出され、この騒音が雷鳴であるとした。この絞り出された蒸発気は風となり、薄くかすかに燃える。これが稲光であるとした。もし絞り出された乾いた蒸発気が大量で急激であれば暴風となった [3]

アリストテレスは、大気の下層と上層では雲は出来ずに、中層でのみ発生すると主張した。つまり、上層では星からの熱や地面で反射された光線から比較的離れており、寒冷のため雲は生成されない。そして地面での反射光線は熱で雲を溶かしてしまうため、地表近くの下層では雲ができない。そのため彼は、雲は地表からの光線が分散された中間の層で形成されるとした。

7.    雨など

地面の「湿った蒸発気」は主に太陽からの熱のために蒸発して上昇する。しかし、地面での太陽反射熱が高空で届かなくなると、上昇する空気中の湿った蒸発気は結合して液体の水となり雲を作る。この雲が形成される領域が冷却されると、雨、雪が発生して落下する。

このような水の相の変化は、太陽の周期的な日周運動に従っている。太陽の位置が高いか低いかによって、蒸気の流れが変動する。太陽が近い(頭上にある)と湿った空気の流れは上に流れ、太陽が遠い(一日の後半)と下に流れる。このような現象をアリストテレスは、周期的に上昇・下降する川のようなものと考えていた[3]

8.    露と霜

日中に発生する大量の水蒸気は、多すぎて熱がそのすべてを上昇させることができないため、高層に達しない水蒸気は地表近くに留まるとした。そして夜になると冷やされて、地表にできる液体の水を露とした。冬のように非常に寒いと、水蒸気は液体になる前に凍ってしまう。それが霜となった[3]

雨は大量の水蒸気の冷却によるもので、広い面積に長時間蓄積される。対照的に、露は少量の水蒸気が短時間で凝縮して形成される。その量の少なさからも明らかなように、露は通常は狭い面積を覆う。霜や雪についても同じことが言える。雲が凍れば雪になり、地表の水蒸気が凍れば霜になると考えた。露ができるのは、水蒸気が乾かないように気温がそれほど高くなく、水蒸気が凍るほどには寒くない場合である[3]

9.    雹(ひょう)

アリストテレスは、雹について議論の余地のない事実と逆説的に見える事実を含める必要があると断っている。雹が降るのは主に春と夏であり、冬に降ることは稀である。一般的に、雹は温暖な気候で発生し、雪は寒冷な気候で発生すると正しく指摘している。

アナクサゴラスによる「雹は、熱が高まると、雲は通常よりもさらに上層の寒冷な層に押し上げられて形成される。そのため、雹は夏や温暖な地域に多く発生するのである」という説を、アリストテレスは否定している。アリストテレスは氷の結晶同士は水滴のように結合できないので、小さな水滴が浮遊している間に結合して、大きな塊となってから凍ったと考えたようである。アリストテレスは、雹が信じられない大きさなりまた球形ではないことから、それが地表の近くで凍った証拠であるとした。

10.

アリストテレスによると、雷は雲に閉じ込められた乾いた蒸発気によって引き起こされる騒音である。雲が凝縮するときに風(乾いた蒸発気)が雲から放出され、周囲の雲に衝突して音を発すると主張した。雲の組成が均一でないため、さまざまな種類の音が発生した[1]。雷は風が突然当たったときに丸太の火がパチパチと音を立てるのに似ていると、彼は例えを用いて説明している。雲の凝縮によって放出された風は、その後細かく穏やかな火で燃えて稲妻となった。このように、それまでの意見に反して、アリストテレスは雷の後に稲妻が起こると主張した[1]

11. 気候とその変動

アリストテレスは地球を宇宙の中心にある球体とみなし、ピタゴラスとその弟子パルメニデス(紀元前6世紀)が以前に提唱した概念を用いて、太陽の傾きに従った5つの気候帯を定義した[3]。このギリシャ語の傾き(クリマ)が、気候(クライメイト)の語源となっている。そして、北回帰線より南は暑すぎて、ある緯度(北極圏のことと思われる)より北は寒すぎるから人が住めないと考えていた。アリストテレスによる単純な気候区分は、最良ではないことが認識されながらも大航海時代を超えて19世紀まで使われた。この気候区分を覆した一つはフンボルトによる気候図である。

 

アリストテレスによる5つの気候帯

また彼は、太陽の進路による寒さと暑さの影響を受けて、特定の場所で気候変化が起こるとした。暑くなって乾燥するとその地域では、湧き水が干上がるのは宿命であり、大きな川はどんどん小さくなり、やがて完全に干上がってしまう。このような変化は海にも影響する。「陸と海は空間的に固定されているのではなく、かつて陸であった場所に海があり、海があった場所に再び陸がある」とし、「私たちは、これらの変化が何らかの秩序と周期性を持っていることを認める必要がある」と述べている[3]

彼は気候変動について極めて長期に及ぶ考え方をしており、「地球の物理的な変化は、徐々に、そして私たちの寿命に比べてかなり長い時間をかけて起こる。そのため、これらの現象は気づかれることなく過ぎ去り、国全体がこれらの変化の始まりから終わりまでの記憶を保持する前に失われてしまう。」と述べて、かつてそのとき土地がどのような状態だったのか、誰も覚えていないとも述べている。ただし現代では、地層などの研究から過去の気候の復元が行われている。

もし海がある場所では後退しているが、別の場所では前進しているのであれば、地球全体において、常に同じ地域が海であったり陸であったりするわけではなく、時代によってその地域的な様相が変化する。そしてこのような変化を一定の時間間隔で周期的に起こると考えていた[3]

アリストテレスが、気候とその変動について、長期的な地球規模の視点と比較的短期間での地域的視点の両方を提示していたことは、特筆に値する。

12.  虹などの光学現象

アリストテレスの気象論の論考の多くは、目視による観察に基づき、一貫した説明を演繹的に推論したものである。虹の説明のために光学理論を構築した。その中心の一つは光の反射である。彼はそれらの現象を鏡との類似性で考えている。太陽などからの光線は、空気や滑らかな表面を持つ物体から、鏡のように反射されると結論づけた。しかし、反射された光線に太陽などの元の形(像)でない。それは反射する物体のサイズが非常に小さいため、人間が元の形を知覚できないと考えた。そして反射されたものの中で人間が知覚できるものは、色であると考えた[3]

そのため、アリストテレスによる光学現象の論考を述べるには、まず彼の色彩論を踏まえる必要がある。アリストテレスの色彩論の中心は光と闇、つまり白と黒を混合すると他の色が生まれる。そして、その色の変化は、反射、距離、反射物の不透明度または暗さの3つに依存すると考えた。彼は虹を赤、緑、紫の3色を基本としていると考えた。そしてこの3色は黒と白の比率のハーモニーによって生まれる。そしてそれ以外の黄色などはコントラストによってそう見えるとした[3]。このアリストテレスの色彩論は、19世紀にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの色彩論に強い影響を与え、その影響は現代においても続いている。

さて虹であるが、アリストテレスは太陽からの反射が見ている人の目に入るために、反射における一様性、規則性を考慮した。そして、背の太陽を頂点とした円錐の底辺で反射が起こり、虹が円形(実際には半分は地平線に隠れる)になると考えた。実際には太陽光線は虹の部分で42°で反射して人間の目に入る(人間を頂点として見ると、虹は頂点が42°の円錐を描く)。アリストテレスは反射角度については触れていないが、虹が太陽光の反射で円状に見える仕組みは正しく推測していた。 色については光の反射、距離、反射鏡の不透明度または暗さによって、色の強弱が変わる。そのために虹の色は赤、緑、紫が基本であり、残りは白と黒の混ざり合い、あるいは視覚や光の弱まりによって、さまざまな虹の色になると考えた。

  アリストテレスによる虹の反射の理論。ただし彼は虹の反射角を42°と特定はしていない。

  

彼は、ハロー、サンドッグ(幻日)、光柱、二重の虹が起こる仕組みも全て共通だと考えて、反射と色彩論で説明している。色はともかくとして、反射によって円または半円の虹ができる説明は現代でも通用するものである。

(次は「気象学者でもあった著名な科学者-フランシス・ゴルトン 」 )

参照文献

[1]H. Frisinger, Aristotle and his "Meteorologica", Bulletin of the American Meteorological Society,Vol. 53, No. 1, 1972.
[2]David Bowker, Meteorology and the ancient Greeks, Weather, Vol. 66, No. 9, 2011.
[3]Zerefos, Aristotle's Μετεωρολογικα? Meteorology then and now, Archaeopress Publishing Ltd, 2020.
[4] アリストテレス. 気象論. () 泉治典. 岩波書店, 1969.