2025年9月29日月曜日

アリストテレスの気象学

 1.     生涯

アリストテレスは古代ギリシャ時代最大の哲学者あるいは思想家である。万学の祖と呼ばれるほどに彼の考察した分野は広い。ここでの解説は彼による自然哲学における気象学とそれに関連したものに絞る。ただし彼の気象についての考察には、現代から見ると明らかに間違っているものもある。ここではその正誤について一つ一つ評価しない。ただ彼が気象を、自然哲学の中でどのように一貫した説明を行おうとしたのかをわかってもらえれば良いと思う。

アリストテレスは、紀元前384年にギリシャのテッサロニキから東に55 kmほどスタギラで生まれた。彼はアテネに移り、17歳でプラトンが設立したアカデミーに入った。そこで学者としての名声が高まった彼は、後にアレクサンダー大王となるマケドニアの若き王子アレクサンダーの家庭教師に任命された。これには、アリストテレスの父親がマケドニアの君主の侍医であったことが、この任命につながったと考えられている。

紀元前335年、アレクサンダーがマケドニア王となると、アリストテレスは再びアテネに移り、紀元前323年にアレクサンダーが亡くなるまで、彼はそこで教鞭と執筆活動を行った。その後、彼は神々を侮辱したとされてアテネでの立場が悪くなった。彼はアテネからの退去を余儀なくされてカルキスに移り、翌年そこで62歳で亡くなった[3]

 

アリストテレスの大理石製の胸像。紀元前330年頃のリシッポス作ギリシャ青銅原型に基づくローマ時代の複製品。マントは後世の追加品。
https://en.wikipedia.org/wiki/Aristotle#/media/File:Aristotle_Altemps_Inv8575.jpg 

アリストテレスは帰納的、体系的、実践的思考の偉人であり、出来事や証拠を整理する能力において比類のない人物だった。彼はアカデミーでプラトンの思想に多大な貢献をし、哲学体系の開発、進化、応用において決定的な影響を与えた。後述するようにアリストテレスは、「気象論(メテオロロジカ)」を書いた。これは気象学を体系的に論じた最古の文献であり、その後2000年以上にわたって気象理論の権威としてとして揺るぎない地位を保った。西洋文明における気象学の教科書は、17世紀末までアリストテレスの「気象論」に全て基づいていたと言っても過言ではないほどである[1]

なお「気象論」を含むアリストテレスの著作の変遷について述べる。アリストテレスの多くの著作は、エジプトのアレクサンドリア図書館に所蔵されていた。西暦641年にアレクサンドリアがアラブ人によって占領されると、それらはトルコのアンティオキア図書館に移された。アンティオキアも征服されると、アレクサンドリア出身の古代ギリシャ哲学の研究者のほとんどはイスラム教に改宗し、その多くが当時イスラム圏だったスペインに移住した。そこで彼の著作はアラビア語に翻訳された。

レコンキスタなどによってスペインが徐々にキリスト教圏に戻ると、彼の著作は今度はラテン語に翻訳された。12世紀以降、ヨーロッパ各地に大学が設立されると、アリストテレスの「気象論」は教科書として採用された。このためアリストテレスの気象論は、体系的な知識として権威を持って普及した。彼の見解はキリスト教とイスラム教の両方によって取り入れられ、長きにわたって自然科学の研究の基礎となった [3]

2.    宇宙モデル

アリストテレスの気象学は、彼の宇宙モデルとも大いに関連している。彼はエウドクソスの球形の宇宙体系を受け入れていた。彼が書いた「気象論(メテオロロジカ)」の基礎は、宇宙体系から導かれる基本理論に基づいている。アリストテレスの宇宙体系は、星や惑星の動きを同心円の球体で説明するものである。地球はそれら同心円の天体運動の中心とされ、それによって地上から見える天体の動きを説明した。

アリストテレスは地球を含む宇宙を大きく2つの領域に分けた。これは二元的宇宙像と呼ばれる(「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)。つまり月とそれから先の永久不滅の「天上界」と、月より内側の万物が流転する「地上界」である。そして学問を、天上界のことは天文学、地上界のことは気象学という領域で区別した。そのため、彼の気象論では、海や地震に関する考えも含まれている。

そして「地上界」の様々な現象は、「天上界」の天体の運行に影響されると考えた。潮汐が太陽や月の位置によって影響されたり、曇っていても太陽の方向を向く花があったりすることを考えると、これは当時極めて説得力があった。この地上界は天上界によって決まる、という考え方を私は「地上事象天因説」と呼んでいる。この天上界の地上界事象への影響は,後にプトレマイオスが書いた「テトラビブロス」によって占星学や運命論の元となった。プトレマイオスの占星術による運命論的な考え方は、「誕生日の星座による占い」や「~の星の下に生まれた」のような表現のように、現代においても広く浸透している。この考えは元を辿ると「地上事象天因説」から始まっている。

また天上界は永久不変とされたため、彗星や流星、オーロラなどの突然現れたり不規則な動きをしたりする現象は、地上界の気象に組み入れられた。この考えはそれらの正体がはっきりする19世紀まで続いた。一方で地上界の考えはエンペドクレスの「四元素説」に基づいており(「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学」の「5. エンペドクレス」参照)、地上界は4つの元素(地、水、空気、火)で構成されて、互いに入れ替わると考えられていた。

アリストテレスは、もう一つ「エーテル」という物質についても言及している(化学物質のエーテルとは別物)。これはアナクサゴラスの時代から唱えられていたもので、当時天体が存在する領域はエーテルで満たされていると理解されていた。古代ギリシャ語では「エーテル」は燃える、あるいは燃やすという語とも関連しており、当時のエーテルは火や炎とはっきり区別されていないという説もある[3]。当時、揺らめく炎は摩訶不思議な物体だっただろう。このエーテルは、性質を変えながら19世紀末まで物理学の中で存在の有無が議論された。

3.    気象論

アリストテレスは、紀元前340年頃に「気象論(メテオロロジカ)」という本を書いた。ギリシャ語の「メテオラ」は「空中に浮遊するもの」という意味であり[3]、このメテオロロジカが英語の気象学(メテオロロジー)の語源となっている。上述したように、彼の気象論に含まれるテーマは非常に幅広い。雨、雲、露、雪、雹、雷、稲妻、旋風、雷光、光輪、太陽柱、幻日などに加え、川や泉、海岸浸食や沈泥、地震、海の起源、場所、塩分などについても述べている。

アリストテレスは、自ら現象を考察した部分も多いが、自分自身の考察の限界も踏まえており、現象によっては他者の観測に頼ったり、他者の理論を用いてそれを吟味したりもしている[2]。そのため、彼の「気象論」は彼の理論だけでなく、かつての自然哲学者、歴史家、詩人、そして一般的な経験から集められた事実の集積でもある[1]

彼の気象予報に関する考えはエジプト人に由来するものが多く、風の分類などは、バビロニアに由来すると考えられている。しかし、雹などの優れた独自の解釈や理論も多い。その際に、彼は類似性(アナロジー)を用いて現象を説明することも試みている。彼の類似で有名なものは、地球の働きと生物の働きの類似性である。生物が食べ物が消化されるときに呼気と熱が発生するように、地球が太陽の暖かさにさらされると熱と後述する蒸発気が発生すると考えられていた。

アナクサゴラスをはじめとする以前の自然哲学者たちは、気象現象に関する思索において、その手法の大部分は観察に基づいた帰納的なものだった。しかし、アリストテレスの気象学は、観察したものの説明に演繹的な手法を採用した。つまり、彼はあらかじめ気象学の演繹的な仮説理論を持っており、その理論に基づいて様々な気象現象を一貫するように説明した。その際に彼は、まず他人の理論を紹介して、それからそれに反論することで自分の理論を紹介する手法を好んだ[1]。最初に記したように、彼の気象論はその後近世に至るまで西洋社会で権威を広く持ち続けた。以下で彼の気象論による気象を説明する。 

アリストテレスの気象論(メテオロロジカ)の表紙

4.    蒸発気

アリストテレスの気象に関する考えには、アナクシマンダーによる「蒸発気(exhalation)」という概念を用いている部分がある(「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学」の「2.アナクシマンダー」参照)。これは太陽によって暖められた大地から湧き出す(大地が吐き出す)もので、2種類ある。ひとつは「湿った蒸発気」で、これは水蒸気として雲や雨などの現象をもたらす。「湿った蒸発気」(地表の水分)は太陽からの熱によって暖まって上昇する。すると上空で冷えて凝結して雲となり、雨となって地球に戻ってくる。これは太陽熱による水循環を意味する。一方で「乾いた蒸発気」は、天上界の星々の影響を受けて、後述するように風や雷の元となる。


 湿った蒸発気と乾いた蒸発気の模式図

5.   

アリストテレスは、アナクシマンダーらによる風は空気の流れである、という意見に強く反論し、風を空気の流れとはしなかった。アリストテレスは風の起源(始原)は乾いた蒸発気であると主張した。そして次のように述べている。

われわれ一人一人のまわりに散っているこの空気が、ただ動くことによって流れるものとなり、運動の始まりがどこからであろうと風となる、という言い方はまちがっている。われわれは、水が流れているということだけでそれを川と呼ばず、またそれがどんなに大量であろうとそれだけで川と呼ばず、むしろ源泉から流れるものを川としなげればならない。そして風についてもこれと同じことである [4]

彼は風を、山から下へ徐々に蓄積された水の流れを表す川になぞらえて、次のように説明した。

風は、大地が濡れると川ができるのと同じように、少量の蒸発気が徐々に集まって形成される。というのも、風はその発生地では最も弱いが、発生地から遠ざかるにつれて強く吹くからである。極のすぐ近くの地域は、冬には穏やかで無風であり、この風は、そこではわからないほどに穏やかに吹くが、遠くへ行くにつれて強くなる[1]

またアリストテレスによれば、乾いた蒸発気は、「地上事象天因説」によって天上界の影響を受けて風の元となった。そのため、天上界の影響により風は上空から発生しなければならないとした。このことは、風を地表で感じる前にその存在が上空の雲の動きによってわかる、という事実で裏付けられるとしている。

さらにアリストテレスは風向を12等分した。そして彼は、風はほとんど北か南から吹いてくるとした。 

アリストテレスによる12の風向。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aristotle_wind_rose_%2845-degree%29.jpg

 彼によると風の説明は次のようになる。太陽の日周運動の北側と南側は放射を受けにくいため寒くなり、そこで雲ができる。したがって降水は、太陽の日周運動の北側と南側で降る。そこで地球と太陽からの熱が地表を乾燥させて、乾いた蒸発気が出来る。その乾いた蒸発気が風の元となるため風は北か南から吹いてこなければならない。そして、天上界の自転の影響を受けて、実際の北風や南風は多少斜めになるとも述べている[3]。

6.    雲と霧

湿った蒸発気と乾いた蒸発気の2つが結合して雲が発生し、結合の際に乾燥した蒸発気の一部は雲の中に閉じ込められるとした。そして、この閉じ込められた蒸発気は雲が衝突すると騒音を出しながら絞り出され、この騒音が雷鳴であるとした。この絞り出された蒸発気は風となり、薄くかすかに燃える。これが稲光であるとした。もし絞り出された乾いた蒸発気が大量で急激であれば暴風となった [3]

アリストテレスは、大気の下層と上層では雲は出来ずに、中層でのみ発生すると主張した。つまり、上層では星からの熱や地面で反射された光線から比較的離れており、寒冷のため雲は生成されない。そして地面での反射光線は熱で雲を溶かしてしまうため、地表近くの下層では雲ができない。そのため彼は、雲は地表からの光線が分散された中間の層で形成されるとした。

7.    雨など

地面の「湿った蒸発気」は主に太陽からの熱のために蒸発して上昇する。しかし、地面での太陽反射熱が高空で届かなくなると、上昇する空気中の湿った蒸発気は結合して液体の水となり雲を作る。この雲が形成される領域が冷却されると、雨、雪が発生して落下する。

このような水の相の変化は、太陽の周期的な日周運動に従っている。太陽の位置が高いか低いかによって、蒸気の流れが変動する。太陽が近い(頭上にある)と湿った空気の流れは上に流れ、太陽が遠い(一日の後半)と下に流れる。このような現象をアリストテレスは、周期的に上昇・下降する川のようなものと考えていた[3]

8.    露と霜

日中に発生する大量の水蒸気は、多すぎて熱がそのすべてを上昇させることができないため、高層に達しない水蒸気は地表近くに留まるとした。そして夜になると冷やされて、地表にできる液体の水を露とした。冬のように非常に寒いと、水蒸気は液体になる前に凍ってしまう。それが霜となった[3]

雨は大量の水蒸気の冷却によるもので、広い面積に長時間蓄積される。対照的に、露は少量の水蒸気が短時間で凝縮して形成される。その量の少なさからも明らかなように、露は通常は狭い面積を覆う。霜や雪についても同じことが言える。雲が凍れば雪になり、地表の水蒸気が凍れば霜になると考えた。露ができるのは、水蒸気が乾かないように気温がそれほど高くなく、水蒸気が凍るほどには寒くない場合である[3]

9.    雹(ひょう)

アリストテレスは、雹について議論の余地のない事実と逆説的に見える事実を含める必要があると断っている。雹が降るのは主に春と夏であり、冬に降ることは稀である。一般的に、雹は温暖な気候で発生し、雪は寒冷な気候で発生すると正しく指摘している。

アナクサゴラスによる「雹は、熱が高まると、雲は通常よりもさらに上層の寒冷な層に押し上げられて形成される。そのため、雹は夏や温暖な地域に多く発生するのである」という説を、アリストテレスは否定している。アリストテレスは氷の結晶同士は水滴のように結合できないので、小さな水滴が浮遊している間に結合して、大きな塊となってから凍ったと考えたようである。アリストテレスは、雹が信じられない大きさなりまた球形ではないことから、それが地表の近くで凍った証拠であるとした。

10.

アリストテレスによると、雷は雲に閉じ込められた乾いた蒸発気によって引き起こされる騒音である。雲が凝縮するときに風(乾いた蒸発気)が雲から放出され、周囲の雲に衝突して音を発すると主張した。雲の組成が均一でないため、さまざまな種類の音が発生した[1]。雷は風が突然当たったときに丸太の火がパチパチと音を立てるのに似ていると、彼は例えを用いて説明している。雲の凝縮によって放出された風は、その後細かく穏やかな火で燃えて稲妻となった。このように、それまでの意見に反して、アリストテレスは雷の後に稲妻が起こると主張した[1]

11. 気候とその変動

アリストテレスは地球を宇宙の中心にある球体とみなし、ピタゴラスとその弟子パルメニデス(紀元前6世紀)が以前に提唱した概念を用いて、太陽の傾きに従った5つの気候帯を定義した[3]。このギリシャ語の傾き(クリマ)が、気候(クライメイト)の語源となっている。そして、北回帰線より南は暑すぎて、ある緯度(北極圏のことと思われる)より北は寒すぎるから人が住めないと考えていた。アリストテレスによる単純な気候区分は、最良ではないことが認識されながらも大航海時代を超えて19世紀まで使われた。この気候区分を覆した一つはフンボルトによる気候図である。

 

アリストテレスによる5つの気候帯

また彼は、太陽の進路による寒さと暑さの影響を受けて、特定の場所で気候変化が起こるとした。暑くなって乾燥するとその地域では、湧き水が干上がるのは宿命であり、大きな川はどんどん小さくなり、やがて完全に干上がってしまう。このような変化は海にも影響する。「陸と海は空間的に固定されているのではなく、かつて陸であった場所に海があり、海があった場所に再び陸がある」とし、「私たちは、これらの変化が何らかの秩序と周期性を持っていることを認める必要がある」と述べている[3]

彼は気候変動について極めて長期に及ぶ考え方をしており、「地球の物理的な変化は、徐々に、そして私たちの寿命に比べてかなり長い時間をかけて起こる。そのため、これらの現象は気づかれることなく過ぎ去り、国全体がこれらの変化の始まりから終わりまでの記憶を保持する前に失われてしまう。」と述べて、かつてそのとき土地がどのような状態だったのか、誰も覚えていないとも述べている。ただし現代では、地層などの研究から過去の気候の復元が行われている。

もし海がある場所では後退しているが、別の場所では前進しているのであれば、地球全体において、常に同じ地域が海であったり陸であったりするわけではなく、時代によってその地域的な様相が変化する。そしてこのような変化を一定の時間間隔で周期的に起こると考えていた[3]

アリストテレスが、気候とその変動について、長期的な地球規模の視点と比較的短期間での地域的視点の両方を提示していたことは、特筆に値する。

12.  虹などの光学現象

アリストテレスの気象論の論考の多くは、目視による観察に基づき、一貫した説明を演繹的に推論したものである。虹の説明のために光学理論を構築した。その中心の一つは光の反射である。彼はそれらの現象を鏡との類似性で考えている。太陽などからの光線は、空気や滑らかな表面を持つ物体から、鏡のように反射されると結論づけた。しかし、反射された光線に太陽などの元の形(像)でない。それは反射する物体のサイズが非常に小さいため、人間が元の形を知覚できないと考えた。そして反射されたものの中で人間が知覚できるものは、色であると考えた[3]

そのため、アリストテレスによる光学現象の論考を述べるには、まず彼の色彩論を踏まえる必要がある。アリストテレスの色彩論の中心は光と闇、つまり白と黒を混合すると他の色が生まれる。そして、その色の変化は、反射、距離、反射物の不透明度または暗さの3つに依存すると考えた。彼は虹を赤、緑、紫の3色を基本としていると考えた。そしてこの3色は黒と白の比率のハーモニーによって生まれる。そしてそれ以外の黄色などはコントラストによってそう見えるとした[3]。このアリストテレスの色彩論は、19世紀にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの色彩論に強い影響を与え、その影響は現代においても続いている。

さて虹であるが、アリストテレスは太陽からの反射が見ている人の目に入るために、反射における一様性、規則性を考慮した。そして、背の太陽を頂点とした円錐の底辺で反射が起こり、虹が円形(実際には半分は地平線に隠れる)になると考えた。実際には太陽光線は虹の部分で42°で反射して人間の目に入る(人間を頂点として見ると、虹は頂点が42°の円錐を描く)。アリストテレスは反射角度については触れていないが、虹が太陽光の反射で円状に見える仕組みは正しく推測していた。 色については光の反射、距離、反射鏡の不透明度または暗さによって、色の強弱が変わる。そのために虹の色は赤、緑、紫が基本であり、残りは白と黒の混ざり合い、あるいは視覚や光の弱まりによって、さまざまな虹の色になると考えた。

  アリストテレスによる虹の反射の理論。ただし彼は虹の反射角を42°と特定はしていない。

  

彼は、ハロー、サンドッグ(幻日)、光柱、二重の虹が起こる仕組みも全て共通だと考えて、反射と色彩論で説明している。色はともかくとして、反射によって円または半円の虹ができる説明は現代でも通用するものである。

参照文献

[1]H. Frisinger, Aristotle and his "Meteorologica", Bulletin of the American Meteorological Society,Vol. 53, No. 1, 1972.
[2]David Bowker, Meteorology and the ancient Greeks, Weather, Vol. 66, No. 9, 2011.
[3]Zerefos, Aristotle's Μετεωρολογικα? Meteorology then and now, Archaeopress Publishing Ltd, 2020.
[4] アリストテレス. 気象論. () 泉治典. 岩波書店, 1969.

 

 

2025年8月2日土曜日

アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

古代ギリシャ文明は、それまであったバビロニア文明などの考え方を引き継ぐだけでなく、独自の気象学を発達させた。古代ギリシャ時代には詩人たちを知識人とみなす伝統があった。彼らは気象を説明するために神話を用いた。そのため、神話には気象に関する古代ギリシャ人の考え方や捉え方が含まれている。気象に関する神話は、現存する最古の古代ギリシャの作品であるホメロスの叙事詩とヘシオドスの叙事詩の中にも見出すことができる。その例としてホメロスの有名な物語を一つだけ挙げる。

オデッセウスはトロイア戦争の後、舟で帰還の途中にアイオロスが住む島にやって来た。アイオロスはゼウスから4つの風の守護者に任命されていた。アイオロスはオデッセウスに、北風、南風、東風を皮袋に詰めて贈った。オデッセウスは残った西風に乗って、イサカ島へ帰ろうとした。オデッセウスとその部下たちは西風の中を出航した。そしてイサカ島に到着しようとしたとき、オデッセウスは眠ってしまった。部下たちは袋の中に富が入っていると思い、自分たちだけで計略を練り始めた。彼らはアイオロスが贈った皮袋を開けた。するとすべての風が吹き出して、彼らの舟はアイオロスの島へと吹き戻されてしまった。アイオロスはオデッセウスらが神々に呪われていると考え、さらなる協力をしなかった。

ホメロスやヘシオドスの叙事詩では、気象を神々の活動としばしば結びつけた。特にゼウスは気象を司る神と考えられた。ゼウスは雷を鳴らし、稲妻を放ち、嵐を引き起こすとされた。また、人間への示唆として雲に虹をかけた。しかし、他の神々も気象を引き起こすことができた。ヘラとアテネは共に雷を起こし、アテネは風を操ることも出来た [1]

また、詩人たちは気象を物語の中で使うこともあった。ヘロドトスの「歴史」は、エジプトの天候や気候、その他の気象学的トピックの記述に長い章を割いているし、アリストファネスの戯曲「雲」では、ソクラテスなどの学者(ソフィスト)たちが「いつも雲や物事の話をしている」と記している [2]

当時、将来の気象を予測するために予兆や前兆に頼ることは、文化の重要な一部でもあった。神話における定義によっては、伝統的な神々とその気象学的活動は、極めて合理的な説明の一形態として理解されることもあった。ヘシオドスは農民への実践的なアドバイスとして、天体気象暦の中で、星や星座などの天体の動きと農作業や航海に適した天候の時期とを関連付けた。しかし、その理由は神々とも関連していた [3]

古代ギリシャ時代における気象学の初期の段階では、多くの自然哲学者たちがこういった気象の研究に力を注いだ。それは、ある意味で気象の原因を神々の所業から引き離そうとした。例えば気象学者ではなかった有名な哲学者ソクラテスは、気象そのものをあたかも神のごとく崇めていたという説もある。気象学者たちは、特異な自然現象は神々の罰である、とする人々の恐怖を取り除こうとした面があった。一方で、気象学者は、怪しげな祈祷師や聖職者と混同される場合もあったようで、その偏見を取り除く必要もあった。

しかし彼ら自然哲学者たちの研究は、現象の観察から先はそれに基づいた推測であり、統一的な一貫した考えではあったが、演繹的で定性的なものだった。プラトンはそういった経験論的な気象学や気象学者たちに対して反感を抱いており、気象学者たちを非難・嘲笑していたという説もある [3]。いずれにしても、気象学が当時の自然科学の中で大きな位置を占めていたことは間違いない。

古代ギリシャ自然哲学の集大成はアリストテレスになろうが、彼の気象学に関する考察とその影響はあまりにも大きいので別な所で改めて述べたい。ここでは、アリストテレスを除いた古代ギリシャ時代の以下の気象学者と、その主張内容について述べる。なお、生没年については諸説ある場合があり、およその年であることに留意してほしい。 

ここで取り上げる古代ギリシャの自然哲学者(気象学者)たち 

1.タレス

古代ギリシャの都市は、地中海東部に点在しており、そのひとつであるイオニア地方のミレトスには、紀元前600年頃、イオニア人初の自然哲学者、数学者、気象学者であるタレス(紀元前624547年頃)が住んでいた。彼はいわゆる「七賢人」の一人であり、ミレトスのタレスと呼ばれている。ギリシャ初期の歴史家ヘロドトスは、紀元前585年頃にタレスが日食を予言したとしている。バビロニア時代から月食は周期的な計算(サロス周期)によって予測が可能だった。しかし月食と異なって日食の計算は複雑であるため、本当に計算のうえで予言が当たったのかは疑問視されている。

古代ギリシャ自然哲学の特徴の一つは、万物を何か根源的な物質(場合によっては複数)に還元しようとしたことである。タレスは万物の根源(アルケー)を「水」と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた。そして、水が雨となって空から降り注ぎ、凝縮して再び空に戻るという循環という概念を持っていた [1]。また彼は、バビロニア人の書物を研究して、それに倣って気象をヒアデス星団などの天体の運動と関連づけようとした。さらに旅好きだった彼は、エジプトを訪れ、ナイル川の定期的な氾濫を、ギリシャでエシュアンと呼ばれる北風が吹くと、それによってナイル川の流れが堰き止められるため、と考察した [1] 

タレスの肖像。「E. ウォリス編『イラスト付き世界史』第1巻」からの挿絵
https://en.wikipedia.org/wiki/Thales_of_Miletus#/media/File:Illustrerad_Verldshistoria_band_I_Ill_107.jpg

2. アナクシマンダー

アナクシマンダー(紀元前610546年頃)もイオニア人で、タレスの友人だった。彼は現象を神学ではなく、自然科学的に説明しようとした。そのため、彼は初めての自然哲学者と呼ばれている [1]。彼は地球全体の形だけでなく、地球には対称域(南半球)があることにも気づいており、地球と星、太陽、月との関係も考えたとされている [3]。この考えは、古代ギリシャ自然哲学の中心テーマの一つとして発展していった。

アナクシマンダーは大気現象の鋭い観察者であり、地球はもともと水に覆われていたと考えた。すなわち、太陽によって水分のほとんどが蒸発し、残った塩分の多い部分が海となった。また雲に囲まれて圧縮された風は、やがて裂けて爆発、雷、稲妻を引き起こした [3]

アナクシマンダーは太陽が湿った地表に作用して「蒸気」または「蒸発気」を引き起こすという考えを明確にした。この考えは、アナクシメネスとヘラクレイトスによって、あらゆる気象現象を説明する基礎として発展していった [3]。特に万物の流転を説いたヘラクレイトスは、後にこの蒸発気を乾いたものと湿ったものとの2種類に区別し、この考えは後にアリストテレスによって採用された。

アナクシマンダーは風を初めて「空気の流れ」と定義したが、これは後のアリストテレスの定義と異なっていたこともあってか、2000年間にわたって一般的に受け入れられることはなかった。

 

紀元後3世紀前半にトリアーが描いた日時計を手にしたアナクシマンダー
https://en.wikipedia.org/wiki/Anaximander#/media/File:Anaximander_Mosaic_(cropped,_with_sundial).jpg

3. アナクシメネス

アナクシメネス(紀元前585年~525)もイオニア地方のミレトスに住んでいた。彼はタレスの万物の根源(アルケー)という考えを受け継いだが、それは水ではなく空気であった。羊毛が圧縮されてフェルトになると性質が変わるように、彼は希薄化と凝縮という相反する2つのプロセスを用いて、空気が一連の変化の一部であることを説明した。そしてこの空気が、さらに凝縮や希薄化することによって、火や水などのさまざまな様相に変化すると考えた [1]。彼は次のように述べている [4]

空気はその希薄さや密度によって本質が異なる。空気が薄くなると火となり、凝縮すると風となり、雲となり、さらに凝縮すると水となり、土となり、石となる。他のすべてはこれらから生まれる。

アナクシメネスはこの考えを用いて、稲妻や雷は、風が雲から吹き出すことによって起こり、虹は太陽の光が雲に降り注いだ結果であり、地震は、雨で湿った大地が乾いて割れることによって起こるとした。雹についてはそれを凍った雨水とし、それは現代においても正しい説明となっている [4] 

 
アナクシメネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anaximenes.jpg

4. アナクサゴラス

イオニア地方生まれのアナクサゴラス(紀元前499年427年頃)は、アテネの優れた自然哲学者である。そのため、アナクシメネスの後継者とも考えられている。彼はすべてのものの中にすべてのものの一部が存在することが可能である、と主張した。彼はアテネへの移住後に、彼は唯物論的な見解、特に太陽は燃える岩であるという主張が有名になったため、不敬罪に問われ、アテネの裁判所から死刑を宣告された。しかし彼は弟子のペリクレスの助けで小アジアへ逃れ、そこで残りの人生を送った。

気象学は彼の数多くの関心事のひとつであったが、気象学には彼の科学的な体系に関する考えがよく現れているとされる。彼は、高山での気温の低下を、高度の上昇によって地表から反射する太陽光の強度が徐々に低下するためと主張した。そして夏に降る雹やあられを、太陽の熱によって水分を含んだ雲が低温の高度まで上昇し、水分が凍結してあられの形で地上に落下するとした [1]

しかも彼は、ある高度以上になると「エーテル」という物質によって気温が上昇するとした。気温鉛直分布は現実の成層圏を考えると正しいものだが、理由は間違っている。彼は、雷や稲妻の原因を説明するためにエーテルを採用した。彼の説では上部大気のエーテルが下層大気に降下して、これが雲の中の火となった。そして、稲妻はこの火が雲の中を閃光を放つことによって起こり、雷は雲に含まれる水分によって火が鎮まるときに鳴る音と考えた [1]。このエーテルという物質の考えは、性質を少しずつ変えながら19世紀末まで残ることとなった。

 

アナクサゴラスの肖像画
https://en.wikipedia.org/wiki/Anaxagoras#/media/File:Jose_de_Ribera_-_Anaxagoras.jpg 

5. エンペドクレス

アナクサゴラスとほぼ同時代を生きたエンペドクレス(紀元前492430年頃)は、シチリアの住民である。彼は宇宙には空気、土、火、水の4つの基本元素があり、これは熱さ、冷たさ、湿気、乾燥の4つの基本的な性質と関連していると主張した。エンペドクレスは雷や稲妻などの気象の原因に関心を持っていた。彼の説はアナクサゴラスと基本的に同じであったが、雲の中の火は雲に閉じ込められた太陽の光であると主張した。これは雷が雲の中で発生することを初めて示したものである可能性がある [1]

アナクサゴラスは、4つの元素の概念を応用して気候の成り立ちを説明しようとした。火と水の対立を利用して、夏と冬という異なる気候の原因を説明しようとした。火と水は大気の中で絶えず対立するものであり、高温で乾燥した火が優勢になると夏になり、湿った冷たい水が優勢になると冬になるとした [1]

 

トーマス・スタンレーのThe history of philosophy(1655)に描かれたエンペドクレス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Empedocles_in_Thomas_Stanley_History_of_Philosophy.jpg

6. デモクリトス

有名な原子論者であり幾何学者であったデモクリトス(紀元前460370年頃)は、他の古代ギリシャ自然哲学者たちと異なり、気象学の経験的・実践的側面と説明的・理論的側面の両方に関心があった。

デモクリトスは数日あるいは数時間先までの気象予報技術を開発し、成功を収めたと言われている。 ローマ時代のプリニウスによると、「デモクリトスは非常に暑い日に収穫をしていた弟のダマシオスに、収穫をやめてすでに刈り取ったものを集めて覆いの下に置くように促した。数時間後、彼の予報通りに大雨に見舞われた」とされている [3]

またデモクリトスは、長期的な観点からの気候や環境の変化の説明も行った。彼は世界の北方では夏至の頃に雪が溶けて流れ出ると主張した。そして、その蒸気によって雲が形成され、これがエテュシオンと呼ばれる北風によって南方、エジプト方面に追いやられると、湖やナイル川を満たす激しい嵐を引き起こすとした[1]。そういった観点での温暖化や乾燥化、海面水位の上昇下降の議論も行った。

デモクリトスもアナクシマンダーと同様に風は空気の流れとした。しかし、小さな空虚な空間に多くの粒子(「原子」)が存在するとき、風が生じると主張した。一方、空間が広く、粒子が少ない場合は、「大気の静止した平和な状態 」とした[1]。しかし、雲に覆われた大気に常に風が伴うとは限らないことがしばしば観察されたため、この説は否定された。雷と稲妻については、彼は原子論に基づき、雷と稲妻を粒子の不均等な混ざり合いによるものであり、雲やその内部で激しい動きを引き起こすものであると説明した[1]。彼は雷と稲妻の同時性を正しく理解していたが、これはその後の自然哲学者たちに長い間無視された。

デモクリトスの説は、そのような気象をすべて自然主義的な説明によって人々の驚きや恐怖を取り除き、神々の人々への浸透を防ぐようにするするためのものだった [3]

 

デモクリトスの半身
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%B9

7.ヒポクラテス

ヒポクラテス(紀元前460375年頃)は、イオニア地方南端のコス島に生まれ、医学を学びギリシア各地を遍歴したと言い伝えられるが、その生涯について詳しいことは分かっていない。彼は「医学の父」とも呼ばれ、病気を「呪術的で超自然的な力や神々の仕業によって起こるものではない」と考えた最初の人物とされている。そして初めて健康を気象と結びつけた人である。

ヒポクラテスは人間の肉体と魂を理解するためには自然、特に気象を理解する必要があると考えた[1]。彼は著書「空気、水、場所について」の中で、さまざまな気候、これらの気候が住民の健康に及ぼす影響やある種の風にさらされることで特徴づけられる地域で流行する病気について論じた[1]

ヒポクラテスの医学はコス派といわれ、生命体全体と季節や大気などの環境の病気への影響を重視し、人間は環境によって身体を構成する体液の調和が崩れることで病気になると考えた。そのため、彼は太陽の位置、風の向き、気候などの健康と病気への影響を重視した。ただし、彼は気候が年によって違うのは気候が天体の動きに依存しているためと考えていた。

ヒポクラテスの考えは長い間忘れ去られていたが、18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパで復活し、国民国家が国民の健康のために気候情報を集めるきっかけとなった。現在、気象病として体の不調を天候と関連付けられることが行われているが、その考えの元祖はヒポクラテスと言えるかもしれない。 

ヒポクラテスの胸像
https://en.wikipedia.org/wiki/Hippocrates#/media/File:Hippocrates.jpg

8.テオプラストス

テオプラストス(紀元前371年~287年はレスボス島生まれの哲学者で、アリストテレスの弟子である。しかし、彼は師であるアリストテレスの気象に関する考え方を引き継いでいない。テオプラストスは経験を重視した。彼は「気象の前兆について」と「風について」という本を残しており、その中で天気の前兆として、雨については80編、風については45編、嵐について50編、好天については24編、周期的な気象については7編を示した[1]

テオプラストスは気象の前兆を、星、太陽、月、彗星、雷、稲妻、虹、光輪、昆虫、鳥、クモ、ミミズ、カエル、哺乳類などによる様々な事象によって示した。これらは気象の前兆によって分類されるのではなく、事象毎に分類されているのが特徴である [3]。ただし、これらはテオプラストスのオリジナルではなく、アリストテレスやデモクリトスの失われた著作に基づいたものとされている [3]

これらのテオプラストスの著作が、天候の前兆をまとめたものとしては世界で初めてとされており、その後天気のことわざなどの形で後世に引き継がれるとともに広まっていった。 

パレルモ植物園にあるテオプラストスの彫
https://en.wikipedia.org/wiki/Theophrastus#/media/File:Teofrasto_Orto_botanico_detail.jpg

9. アテネの風の塔

人物の話ではないが、風の塔について記しておく。アテネには今でも風の塔が残されている。これは紀元前1世紀より前にマケドニアの天文学者アンドロニコスが建てたものと言われている。この塔上部の8つ方角の各面には風向の特徴を示した神々が彫られている。塔の天井には海の神トリトンのブロンズ像があり、それが風向計になっていた。その時吹いている風に応じて、その風向計についた杖で塔上部の風の名と神の顔を指し示すようになっていた。ただし、現在はその風向を示すブロンズ像は壊れて存在しない。

この塔の内部には水時計が設置されている。この塔がある場所は窪地であり、風の観測にはあまり向かないと考えられている。アンドロニコスは、この水時計が設置されている建築物の美しさと調和を重視して、この塔に風神の芸術的な紋章をあしらったのではないかとも言われている[2] 

背後にアクロポリスがそびえるアテネの風の塔
https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_the_Winds#/media/File:20211102_224_athenes.jpg

 (次は「アリストテレスの気象学」)

 参照文献

[1] Frisinger, "The History of Meteorology: to 1800," American Meteorological Societ, 1977.
[2] Taub, ANCIENT METEOROLOGY, Routledge, 2003. 
[3] Johnson M. R., The Cambridge Companion to ANCIENT GREEK AND ROMAN SCIENCE, Cambridge University Press, 2020. 
[4] Graham, "Anaximenes," Internet Encyclopedia of Philosophy.
[5] Hellmann, "The Dawn of Meteorology," Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, no. No.148, 1908. 


 

2025年7月9日水曜日

古代ギリシャ時代以前の気象学

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

気象学の起源のようなものを考えてみる。

古代から農耕民族も狩猟民族も気象から影響を受けながら生活してきた。その中で、農耕民族の方が気象に依存する部分が大きく、実用的な面で気象(特に気象の予知)に対する関心が高かったと思われる。しかし、その関心は必ずしも気象の因果関係の解明につながったわけではなかった。当時の気象に関する記録は、神秘的あるいは宗教的な側面が顕著なものも多いとされている[1]。つまり、人間の理解力を超越したもの、つまり神々のようなものが気象を引き起こすと考えられた。

古代における最初の大文明は、アフリカとアジアの大河に沿って発展した。ヘレニズム時代以前の文明に関する現在の知識のほとんどは、エジプトとバビロニアである。

エジプトでは、気象は宗教的性格を持っており、大気現象は神々の支配下にあると信じられていた[1]。これを利用して気象(気候)予知を人々を統治する手段にすることもあった。もちろん当たらない場合もあり、そうなると両刃の剣となったかもしれない。ギリシャ時代に入ると、神々が気象を引き起こすことに納得しない人々が出てくることになる。これについては、別の所で記すことにしたい。

バビロニア文明は、チグリス川とユーフラテス川流域で発展し、紀元前3000年頃から紀元前300年頃まで栄えた。バビロニア人は粘土を筆記の記録として使った。すなわち、粘土板に尖った棒のようなものを使ってくさび形文字で碑文を刻み、これを焼いて永久的な記録とした[1]。そのバビロニア文明の記録は、気象の研究がここから発展したことを示している。

粘土板に刻まれたくさび形文字。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%94%E5%BD%A2%E6%96%87%E5%AD%97#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Cuneiform_script.jpg

バビロニアの天文学者たちは、大気現象を天体が位置する天上界の動きと結びつけて初めて体系化し、天体気象学を確立した。彼らは天文学と気象学の関係を明らかにしようとして、月に暈がかかると雨が降るなどの天体による気象の予兆を集めた[1]。同様にして、雲、嵐、風、雷も研究したが、それは吉凶の予兆としてのものも多かった。つまり、厄災を避けるためのしきたり(祈祷)のためだった[2]。

また風についても、バビロニア人たちは初めて風向を8つに分けることを始めた。それらはまず風向を東西南北に4分割し、さらにその中間を最初に4分割した方角と合わせて(北東、南西のように)表記した。この考え方は現在にも受け継がれている[1]。ギリシャ・ローマ時代には、それぞれの風向毎に独自の名前を付けることがあり、これは地中海のイタリア人船乗りたちの間で長い間使われた。それを考えると、この8分割する風向の命名法は、合理的で画期的だった。

バビロニア付近の地図

気象の研究のもう一つの源と考えられているのはインドである。「十二夜」という考え方があった。この名前はシェークスピアの物語で有名である。しかし本来は、元旦からの12日間の天候がその後の1年間の天候を示す、という迷信を指していたらしい。その後キリスト教の流布でクリスマスからの12日間に変わった。この考えは15世紀頃まではヨーロッパの数多くの文献に見られる[2]。この起源は古いインドやヴェーダの書物まで遡ることができる。この考えはインドから西方のヨーロッパへ伝わっただけでなく、東方の中国にも伝わったとされている[2]。

(次は「アリストテレス前後の古代ギリシャ自然哲学の気象学 」) 

 
参照文献
[1] Frisinger, The History of Meteorology: to 1800, Historical Monograph Series, American Meteorological Society, Science History Publications, NEW YORK - 1977
[2]Hellmann, The Dawn of Meteorology, Quarterly Journal of the Royal Meteorological Society, No.148, 221-233, 1908.


2025年4月28日月曜日

クリミア戦争とルヴェリエ

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。) 

 クリミア戦争とは1853年から1856年にかけてロシア帝国とオスマン帝国と間で戦われた戦争である。オスマン帝国側としてフランス・イギリスなどの連合軍が加わったため、両軍とも25万人以上を動員する大規模な戦争となった。この戦争ではイギリスのナイチンゲールが活躍したことでも知られる。これは後に国際赤十字社の設立のきっかけとなった。またこれは、気象学にとっても暴風警報の開始というエポックメイキングな出来事となった。そして、本書の「6-2-3 ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行」で記述したように、それを主導したのはフランスの天文学者ユルバン・ルヴェリエ(1811 - 1877)だった。

オスマン帝国とフランス・イギリスなどの同盟軍は、ロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島のセバストポリ要塞への攻撃を計画し、フランスの最新の装甲戦艦「アンリⅣ世」を含む英仏連合艦隊と陸軍部隊を黒海に派遣した。ところが、1854年11月14日に突如として嵐が黒海に来襲し、「アンリⅣ世」や防寒装備などの大量の補給品を積んだイギリスの蒸気船「プルトン」号が沈没し、また多くの艦船、陸上部隊が被害を受けた。またこの嵐は北方から寒気を引き込み、季節外れの降雪などによっても、防寒装備を失った陸上部隊は甚大な被害を蒙った。兵士たちの飢えや凍傷に対応するために、急遽ナイチンゲールなどの大勢の看護師たちが現地に赴いて、兵士たちの治療に当たった。

戦艦「アンリⅣ世」の沈没
© National Maritime Museum, Greenwich, London

この頃には各国に電信を備えた気象観測所が置かれていた。この被害を受けて、ナポレオンIII世を始めとする多くの人々が、この嵐が黒海に到達する数日前には、嵐がヨーロッパ西部を進んでいることが予めわかったのではないかという疑念が起こった。フランス政府のベラン陸軍大臣は、パリ天文台長だったルヴェリエに、嵐の襲来が予測可能かどうかの調査を命じた。ルヴェリエは、当時世界で最も有名な天文学者の一人だった。1846年にニュートン力学を用いた天王星の軌道のずれから、紙と鉛筆による計算結果を用いて別な惑星の存在を予言し、彼が予言した時刻と場所に海王星が発見された(この発見はイギリスの数学者アダムスもほぼ同時だった)。この功績から、ルヴェリエはパリ天文台長フランソワ・アラゴの死後、1854年にその地位を継いでいた。

 ルヴェリエの肖像画

おもしろいことに、19世紀半ばまで隕石や流星は大気現象、つまり気象の分野と思われていた。これらは気象学とは関係ないことを明らかにしたのはフランスの高名な科学者アラゴだった。これによって隕石や流星の研究は天文学の分野に戻ることとなった。一方で、それらが抜けたことで、気象学は天文学のような高尚な科学から、混沌とした研究分野へ転落することとなった。気象は予測できないという見解がアカデミーなどの科学者たちに広く共有されていた[1]。


ルヴェリエは、ヨーロッパ各地の気象観測所に要請して、1854年11月の嵐の前後の気象記録を集めた。その結果、嵐はスペインから地中海を経て黒海に到達したことがわかった。ヨーロッパで嵐(低気圧)が移動することをデータから示したのはこれが初めてだった。ルヴェリエは、嵐の到達した場所が
わかれば、電信によってそれを他の場所へ警告することが可能であると結論した。当時気象予測は一種の似非科学である占星気象学(「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)の一部と思われており、このような結論は、きちんとしたデータに加えて高名だったルヴェリエの権威があったからこそできた。

1854年11月14日に黒海を通過した低気圧の推定経路図

1855年2月にルヴェリエは、電信で結ばれた大規模な気象観測網と結果の通報計画をナポレオンIII世に提出して承認された。しかし、その体制構築は直ちには行えなかった。その原因の一つは、まずは電報代だった。嵐の到達とその警告を行うには、各地との定期的な通信が必要だったが、当時電信を用いた電報は高額だった。ルヴェリエは気象電報の無料化の折衝をあちこちと行う必要があった。また、各地の気象観測所での観測方法や観測時刻などの統一も必要であり、その折衝にも尽力した。これは現在も行われている定時通報(SYNOP)の先駆けとなるものだった。

しかし、電信を用いた暴風警報体制を世界で初めて整えたのはオランダだった。1860年にオランダ王立気象局長官のボイス・バロットは、世界で初めての暴風警報の発表を開始した。翌年にはフィッツロイがやはりイギリスで暴風警報の発表を開始した「フィッツロイと天気予報(2)参照」。両者は国内体制だけで警報を開始したが、フランスでの暴風警報体制は周辺国の観測を含むものだった。
パリ天文台による暴風警報の発表は、1863年からとなった。

暴風警報の発表では遅れをとったが、ルヴェリエの功績は1856年7月からヨーロッパなどの気象を集めた気象報告を毎日発行し、さらに1863年8月からは等圧線が描かれた天気図の発行を開始したことである。注意深いことに「気象予報」という言葉を用いなかったが、実際には推測した翌日の天気概況が
天気図に含まれていた。フランスは天気図を定期的に発行する世界で初めての国となった。

(次は「古代ギリシャ時代以前の気象学」) 

参照文献

[1] J. D. Cox、嵐の正体にせまった科学者たち(訳:堤 之智)、2013

2025年4月16日水曜日

フィッツロイと天気予報(2)

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。) 

 

フィッツロイの生い立ち

ロバート・フィッツロイ(1805 - 1865)は、イングランドのサフォーク州アンプトンで、貴族で陸軍軍人である父と子爵の妹である母との間に生まれた。14歳のときに王立海軍大学で首席になり、その後、士官候補生として4年間洋上で過ごした後、少尉試験に満点で合格して士官候補生となった。

23歳で「ビーグル号」のキング船長の補佐として南米を調査する航海を任された。その時に気圧計の降下にもかかわらず帆を上げたまま航海を続けたため、嵐によって船が横倒しになったが、フィッツロイは両方の錨を降ろすよう命じて、ビーグル号の船首を風に向けたため沈没を免れた。彼の行動は賞賛されたが、彼は突然の強風を事前に予測できたはずだと感じていた[2]

ビーグル号探検航海の船長とニュージーランド総督

この南米の調査はいったん打ち切られ、船はイギリスへ戻った。しかし、海軍のボーフォート大尉(ビュフォート風力階級の発明者)の進言で、翌年に再度南米の調査を行うことになった。この時、フィッツロイは今度は船長として博物学者のチャールズ・ダーウィンを同行した。船長は士官と自由に会話することが禁じられており、ダーウィンは船長の絶好の話し相手となったようである。孤独な状況からかフィッツロイは神経衰弱に陥り、乗組員に対してときおり感情を爆発させていたが、ダーウィンはフィッツロイを畏敬と慈愛の目で見ていた[3]。ダーウィンのフィッツロイに対する敬愛は、フィッツロイの死まで続いたようである。

1831年から1836年にかけて行われたビーグル号による探検航海は大成功を収め、フィッツロイはイギリス王立地理学会のゴールド・メダルを授与された。彼は1841年に議員に選ばれ、1843年にニュージーランド総督の地位に就いた。しかし彼は、為政者としての能力は秀でていなかったようである。当時ニュージーランドでは現地住民(マオリ族)と入植した白人が対立しており、それをうまく調定することが出来なかった。彼は1845年にイギリス政府と入植者たちの怒りを買い、総督を罷免されてイギリス海軍に戻り、さらに1850年には軍人を退役した[2]

政府による気象観測網の設立と警報の発表

フィッツロイと天気予報(1)」述べたように、1853年にアメリカのモーリーによって、気象観測に関する世界で初めての国際会議がブリュッセルで開催された。モーリーの世界中という当初の目論見とは異なって、この会議で海上の軍艦のみによる気象観測とその方法が定められた。これに応じてイギリスでは商務省貿易委員会(Board of Trade)に気象部(Meteorological Department)が設置され、その記録のとりまとめと統計が行われることになった。これは後にイギリス気象局(Met Office)となる。そして、これを実質上統括する気象統計官に、王立協会の推薦でフィツロイが任命された。

彼の仕事は、船から報告される気象観測結果の統計を行うことだった。このような気象統計があれば、船は風や海流をうまく利用することで航海日数を短縮することが出来る。彼は船で気象観測を行えるように気象測定器の取り扱い説明書を作成し、軍艦だけでなく商船にも配布した。また船舶用の気圧計を自ら作成した。これはフィッツロイバロメータと呼ばれた。

1859年に大きな海難事故が起こった。当時最新鋭の鋼船「ロイヤルチャーター号」が、嵐によってウェールズ沖で難破し、450名が遭難した。またこの船だけでなく合計で133隻が被害を受け、死者は800名を超えた。この嵐は「ロイヤルチャーター・ストーム」と呼ばれた。フィッツロイはこの嵐に関する気象調査を行った。

フィッツロイは、ドイツの気象学者ドーフェによる異なる気流の衝突が悪天候を引き起こす、という考えに従って、異なる気団の境目ではっきりした渦状の構造を持った嵐がイギリスを通過したことを図示した。この嵐が気団の境目で渦状の構造をしていることを図示したことは画期的だった。これは、このような図を作成できれば、嵐の進行方向に住む人々に暴風を予告することが出来ることを意味した。イギリスには電信網が張り巡らされていた。彼は電信を用いてある地点での嵐の到来を他の場所へ知らせることを提案した。この警報があれば、船舶は近くの港に避難するか、出航を見合わせることが出来た。

フィッツロイが作成したロイヤルチャーター・ストーム時の天気図。寒気が青、暖気が赤で示されている。これは現在の気象衛星からもたらされる画像に似ている。当時の限られた海上と地上観測結果だけから、このような嵐の構造を明確に示したことは驚くべき事だった。The Weather Book : A Manual of Practical Meteorology1863)より。

フィッツロイが考えていた暴風警報の発表には、いくつかの地点を網羅した気象観測網と継続的な観測・報告という大規模な事業を必要とした。フィッツロイは、イギリス科学振興協会を通じて電信を用いた気象観測網の設立を要求した。これは政府に認められて、イギリスを3つの気象区に分けた電信を用いた気象観測網が設立された。これは、アカデミックではない中央の政府機関が気象観測とその結果のとりまとめを行うという、当時の行政から見るとそれまでとは全く異質な事業だった。しかも観測データを集めて分析するという日々の作業は、科学的な匂いのするものだった。

この時からフィッツロイの使命は、気象統計から人々の命を嵐から守ることへと変わった。彼は気象観測所の設立を拡大し、イギリス沿岸の22か所と大陸の5か所からの気象観測結果を毎日受け取った。18612月に、それを用いた初めて暴風警報(cautionary signals)を発表した。しかし認めてられていたのは、存在がわかった嵐の接近を他の地点へ警報として予告することだけだった。警報は港などの高台に標識を掲げて人々に知らせた[2]

フィッツロイの警報標識(cautionary signals)。上段は昼間の信号。左から強風(北風)、強風(南風)、強風(継続)、暴風(最初は北風)、暴風(最初は南風)下段は代わりにランプを使った夜間の信号(The Weather Book : A Manual of Practical Meteorology1863年)より)

天気予報の開始

ところが彼は、8月からそれに強引に天気予報を加えた。これが物議を醸した。それまでの天気予報は占星術などを慣習的に用いたものであり、科学ではなかった。しかも、気象観測の結果を用いた予報のための法則や指針はなかった。当時気象学は、支援と研究に値するが、成熟した科学分野の確固たる基礎と信頼できる特徴を欠く学問分野、と見なされていた。王立協会のメンバーなど科学者たちはの、当時似非科学が人々に広まるのと戦っていた。フィッツロイによる予報も確固とした法則に基づいたものではなく、保守的な学者たちにとって政府から発表されるフィッツロイの予報は、高尚な科学への信望を損なう脅威と映った。

また当時、科学を実用に供することは必ずしも好ましいこととは考えられていなかった。科学は実用とは無関係に、独自の真理の探究に専念すべきと言う考え方もあった。ところが、暴風警報は、まさに科学の匂いのする実用技術、つまり気象工学だった。現状把握という事実に基づいて状況を知らせるという暴風警報は、「船舶に対する安全確保」という目的が明確になっていたものの、科学者たちの琴線には触れなかった。ましてや予報は科学を冒涜するものに近いと思われた。あらゆる機会を捉えたフィッツロイへの非難が始まった。

フィッツロイは、自身の天気予報がそれまでの占星術によるものと異なることを強調した。天気予報にドイツの気象学者ドーフェによる気流の衝突の理論を用いていることを示したり、従来の予測(プロバブル、プレディクションなど)の意味と異なることを示すために、新たに「フォアキャスト」という新語を作ったりした(これは現在は天気予報という意味で定着している)。彼は1863年の商務省気象局の報告書において、暴風雨警報と毎日の天気予報は同じ基盤に基づいており、一体のものであると述べた。

そして同年に、「ザ・ウェザー・ブック」という気象のためのガイドブックも発行した。これには「実用的な気象学の手引き」という副題が付いており、天気予報の初歩的な科学的根拠とそのための組織的な活動についての解説が含まれた斬新なものだった。これには寒気と暖気の境目で渦状の低気圧が発達するといった新しい考えも含まれていた。しかし、科学的な法則性が確立されていない予報は、利用可能な総観気象データを用いた、概念的な仮説と典型的な気象パターンによる経験的な知識を組み合わせた推論と見なされた[4]。結局、学者たちによる不信は拭いきれなかった。

フィッツロイは神経衰弱に陥り、18654月に自殺した。この原因はわかっていない。1859年にはダーウィンによる「種の起源」が出版されていた。敬虔なキリスト教徒だったフィッツロイは、親しかったダーウィンによる神を否定する進化論を受け入れることは出来なかった一方で、彼を同行者として受け入れた船長としての責任を感じていた。また、彼はビーグル号による探検費用とニュージーランド総督としての費用に私財を投じており、多額の借金があった。さらに日々の予報に対する責任、特に学者たちから指弾を受けないような完璧な予報を目指す重責があった[2]

天気予報と警報のその後

王立協会と商務省は、フィッツロイの死後に彼の仕事の調査を行うために、気象学者フランシス・ゴルトン卿を委員長とする委員会を立ち上げた。ゴルトン卿は高気圧などの用語を定義した気象学者であったが、後に統計学や優生学で著名な業績を上げたことで有名である。ただゴルトンとフィッツロイの間には以前から確執があったとされている[4]1866年にゴルトン委員会は報告書を提出した。この委員会は、暴風警報に対してはある程度成功していて、非常に重んじられたとみなした。しかし天気予報は、正確な法則もしくは事実からの十分な帰納的結論に基づいておらず、満足な状態ではないとした。委員会は、イギリスでの気象の研究は政府よりは科学的な組織による方が好ましいと結論した。

さらに商務省の官僚は、暴風警報について委員会と異なった意見を持っていた。この機会にフィッツロイの助手たちが続けていた予報と警報の発表は両方とも中止された。しかし、警報の中止に対しては、貿易商、漁民、海上保険業界から反対の声が起きた。警報は翌1867年から再開された。しかし、予報の再開は1879年からとなった。ただ、その間に何か予報技術の進歩があったわけではなかった。人々による予報の受け入れの方が変わったのかもしれない。

フィッツロイの予報に対する評価は一筋縄ではいかない。純科学的に見れば、フィッツロイの手法は、ゴルトン委員会の報告のように、十分な帰納的証拠に基づいたものではなかった。しかし、イギリスでの再開を始めとして日本を含む多くの国々は、後にフィッツロイと同じような科学的状況で天気予報を開始した。むしろフィッツロイは、予報や警報に対する観測の重要性を明確にしたとも言える。前線を用いたベルゲン学派気象学も詳細な観測の上に築かれたものである。究極的には、天気予報の考え方は数値予報が始まるまでフィッツロイの考え方の延長線上にあった、と言えるのかもしれない。

今日フィッツロイの名前は、パタゴニアの山、そしてニュージーランドの多くの通りの名前として生き続けている。 

(次は「クリミア戦争とルヴェリエ」)

参照文献

[1] 村上陽一郎(2000, 現在の科学を問う, 講談社現代新書.
[2] J. D. Cox (2013),
嵐の正体にせまった科学者たち(訳: 堤 之智)、丸善出版.
[3] Erick Brenstrum (2009), FitzRoy: Inventor of the weather forecast, New Zealand Geographic, issue 99.
[4] Huw C. Davies (2014), Setting, substance and scrutiny of FitzRoy's Weather Book, Weather, No.69, 2.