2021年4月17日土曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(3)

3. 早期の研究

3.1 電気力学と力学

1892年に発表されたウォーカー最初の論文は、交流を伝達する導体の反発に関するエリフ・トムソンの実験についての数学的な議論だった。この研究はトムソンが定性的に進めたアイデアを定量的な形で示したもので、きわめて高等な数学的処理を行っているが、物理学的な発見または新しい原理を示したものではなかった [1] 

1899年に、ウォーカーは「Aberration and some other problems connected with the electromagnetic field」という題のエッセイに対して、後にケンブリッジ大学のルーカス教授職に就くジョセフ・ラーモアとケンブリッジ大学のアダムズ賞を分かち合った。ウォーカーは電気力学などの業績により1904年には王立学会の会員に選ばれた。インドへ赴任した後には1908年にカルカッタ大学で電磁気学についての一連の講義を行い、それはその後ケンブリッジ大学出版局から出版された。ウォーカーの電気力学に対する興味は、彼の優れた数学的才能を適用できる問題を彼が見つけた時に生じたようである [1] 

彼の力学への興味も続いていた。1892年には完全流体の中での楕円体の発射体の運動に関する議論を論文として発表した。これは当時の流体運動の古典理論とは全く異なったもので、彼の理想的な状態での理論は、現実の砲術とはほとんど関係がなかった [1]。また、彼は1896年に特殊な回転をするコマの運動に関する論文も出版した。

3.2 ブーメラン

ウォーカーは1880年代にオーストラリアへ旅行に行った際に、ブーメランに興味を持った。そして自らそれを投げるようになり、その名手となった。ケンブリッジ大学時代から、大学の公園(ケンブリッジ・バックス)でブーメランを投げる彼の姿は有名であり、当時からブーメラン・ウォーカーと呼ばれていた。

ケンブリッジ・バックス(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Backs.jpg

 ウォーカーは1897年にブーメランに関する独創的な論文「boomerangs」をNature誌から出版した。空気力学についてほとんど知られていなかった当時、ブーメランが現在知られている高アスペクト比による優れた空気力学的な側面を持っていることに彼は気づいていた。彼はブーメランの速度成分と回転成分の項を用いてブーメランにかかる空気力学的な力とモーメントを表わし、これらの力の作用に基づく独特なブーメランの運動を分析した [1]

彼は論文においてにおいて、円を描いて戻ってくる場合、円を描いて戻ってくる際に投者の前で2回目の円を描く場合、その応用として投者の後ろまで行ってから2回目の円を描く場合、ウォーカーが成功した最も複雑な投者の前後を行き来しながら3つの円を描く場合、直線に近い軌跡で往復する場合の例を挙げている [3]。それら以外に、戻らない投げ方があることも示している [3]。これらの結論は、現代の空気力学によっても変わっていない。


 
ウォーカーが示した最も単純な円を描くブーメランの飛び方(反時計回り)。上図は上からの俯瞰図、下図は鉛直断面図。図中の直線はブーメランの回転軸。回転が増すと角速度が増す。傾き(COSθ: θは回転面と水平面との角度)が増しても角速度が増す。傾きと回転が増すとより左側へ旋回する。これらを調節して円を描くように投げると投者の下に戻ってくる。[3]より



ウォーカーが示した投者の前で2回目の円を描くブーメランの飛び方。 [3]より



ウォーカーが示した投者の後ろまで行ってから2回目の円を描くブーメランの飛び方 [3]より


ウォーカーが示した投者の前後を行き来しながら3つの円を描く最も複雑なブーメランの飛び方 [3]より


ウォーカーが示した直線に近い軌跡で往復するブーメランの飛び方 [3]より

この論文は広く知られた。そのためウォーカーはスポーツとゲームの数学的な側面に焦点を置いたクライン百科事典のための記事を書くように依頼された [1]1900年に出版された事典において、彼の記事はビリヤード、ボール・ゲーム(特にゴルフ)、ブーメラン、自転車の4つにわたっており、それは当時のスポーツの分野で使われる物体の運動を支配する力学的な要因に関する知識がよくまとめられたものとなっている。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] Taylor I. G., 1962: Gilbert Thomas Walker. 1868-1958.The Royal Society, Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, 8, p166-174.
[2] Walker M. J., 1997: Pen Portrait of Sir Gilbert Walker, CSI, MA, SCD, FRS. 7, Royal Meteorological Society, Weather, 52, p217-220.
[3] Walker T.G., 1901: boomerangs. Nature, Nature Publishing Group, 64, 338-340.


2021年4月12日月曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(2)

2. 生まれてからケンブリッジ大学まで

ギルバート・ウォーカーはロンドン南部のクロイドンで1868年6月14日に、4人目の子供の長男として生まれた。父の父トーマスは技術者だった。彼は1876年に地元の小学校(Whitgift Grammar School of Croydon)へ入ったが、そこで、数学と力学に興味を示した。彼は13才でケジントンにあるセント・ポールズ学校(St Paul's School)の奨学金を得て、そこで教育者として有名なフレデリック・ウィリアム・ウォーカー校長の下で学業生活を送った。彼自身の言によれば、最初古典を習っていたが大失敗をやらかして数学に送られたとなっている [1]。在学中にギルバートの力学への興味は増し、1885年には彼が自ら作ったジャイロスコープで賞をもらった [2]。

1885年12月にウォーカーはケンブリッジのトリニティ・カレッジの数学の奨学金を得て、翌年10月にそこへ入学した。在学中に彼はいくつか大学の賞を獲得した。その中には後に王室天文官(グリニッジ天文台長)になったF.W. ダイソンと共有したSheepshanks Astronomical Exhibition賞もあった。彼は1889年にトリニティ・カレッジ数学課程卒業試験(Mathematical Tripos)パートIのシニア・ラングラー(数学科首席)に輝いた [1]。ちなみに彼の友人ダイソンは次席だった。1889~90年に彼は応用数学を研究して、数学課程パートIIをやはり首席で卒業した。1891年に彼とダイソンは、トリニティの研究員(Fellows of Trinity)に選ばれた [1]。

ケンブリッジ大学(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:KingsCollegeChapel.jpg)

しかし、この学業の無理がたたってウォーカーは健康を損ない、療養のためスイスで3年間を過ごすはめとなった。スイスでの療養は彼にとって貴重な期間となった。この時期は彼にとって思考に没頭するための時間を与えただけでなく、登山やスケートをする機会を提供した。特にスケートは彼の生涯での趣味の1つになった。1895年には健康を回復し、彼はトリニティ・カレッジの講師になった。これは彼が1903年にインドに行くまで続いた [1]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] Taylor I. G., 1962: Gilbert Thomas Walker. 1868-1958.The Royal Society, Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society, 8, p166-174.
[2] Walker M. J., 1997: Pen Portrait of Sir Gilbert Walker, CSI, MA, SCD, FRS. 7, Royal Meteorological Society, Weather, 52, p217-220.

2021年4月9日金曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(1)

 1. はじめに

イギリスのギルバート・ウォーカー(Gilbert Walker, 1868-1958)は、若い頃からケンブリッジ大学の数学者として傑出した才能を持っていた。しかし彼は、自身の人生を主に気象学者として過ごすこととなった。彼は数学者なのに季節予報を行うためにわざわざ遠いインドへ気象局長官として赴任した。当時モンスーンのような毎年変動する季節現象を予報するための確立した方法はなく、彼はインド・モンスーンの変動の予兆を探るために、世界各地の気象観測結果を統計学の相関係数や回帰式という数学を駆使して、幅広い時間・空間にわたる解析という膨大な作業を行った。それは、それまでの因果関係を探るという気象学の手法とは全く異なった斬新なものだった。

彼による研究の結果、それまでの手法ではわからなかったことが明確になった。その一つが気圧の変動である「南方振動」であり、今日「エルニーニョ・南方振動(ENSO)」として知られているものである。また、この研究は統計学の進歩も促し、「ユール・ウォーカー式」という自己相関における新たな数学的手法も生み出した。この数学手法は現代の気象学における時系列解析だけでなく、電波工学、金融工学、音響工学などさまざまな分野において、自己相関を用いた解析に重要な役割を果たしている。そしてそれを用いた計算式は最新の解析ソフトウェアに組み込んである場合もある。そして、これら南方振動とユール・ウォーカー式は、どちらもモンスーンの予報という同一の研究の中から生まれたものである。

ウォーカーはインドから戻った後にナイトに叙せられ、王立気象学会のサイモンズ・メダルと王立航空協会のシムズ・メダルを授与された。それでも当時、彼の功績は十分に評価されたものとはいえなかった。彼の発見の偉大さが本当に認識されたのは、1950年末から南方振動がエルニーニョと密接に関係していることがわかり、1960年代にそれらが世界の気象に及ぼす影響とメカニズムがおおよそわかってからのことである。

ギルバート・ウォーカー

現在ではエルニーニョと南方振動は、合わせてエルニーニョ・南方振動(ENSO)と呼ばれることが多い。また、ENSOと密接に関連している赤道上空の東西風には、ENSOの仕組みを解明した気象学者ヤコブ・ビヤクネスによって「ウォーカー循環」という名称が与えられている。今日ではエルニーニョが起こると全世界の人々が異常気象に注目し、またそれによって起こる世界各地での気候変動はテレコネクションと呼ばれて、新しい研究分野となっている。なお、ここではENSOの仕組みについては詳しく述べないが、詳しく知りたい方は気象庁の「エルニーニョ/ラニーニャ現象とは」などを参照していただきたい。

また、ウォーカーはブーメラン、スケート、水彩画、フルートなど他にもプロフェッショナル並の趣味を持っており、特にブーメランについてはその名手としてだけでなく、その飛び方の理論的な研究を行ったことでも知られている。ウォーカーの生涯については、文芸的な作品としてJohn D. Cox著による「Storm Watchers」(邦題「嵐の正体に迫った科学者たち」)の中にウォーカーの章がある。また本書「気象学と気象予測の発達史」では「エルニーニョと南方振動の発見」のところで簡単にウォーカーについて触れている。ここでは異色の気象学者である彼について、彼の数学的な成果も含めて詳しく系統的にまとめておきたい。

つづく

2021年2月20日土曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(6)

6. 気象研究所における放射能研究

 気象研究所では既に1954年4月から落下塵や降水中、海水中の放射性物質の観測を行っていた。気象研究所の三宅泰雄博士は、1954年に国内各地の大学で観測された雨の放射能データを集め、全国的な実態について研究した。また、政府が1954年及び1956年に行った俊鶻丸(しゅんこつまる)によるビキニ海域での放射能調査にも参加した[4]。

 1957年に原子力委員会が「放射能調査計画要綱」を定めると、1958年1月から気象研究所は落下塵、降水、海水中の放射性物質の放射化学分析を開始した。この研究のための試料採取は、科学技術庁の放射能調査研究費による「地表大気の放射能観測」の一環として11か所の気象官署が担当した。気象研究所は各官署で採取された試料の放射化学分析を行い、セシウム137とストロンチウム90等の降下量を測定した[4]。

 セシウム137とストロンチウム90は人体に取り込まれると、セシウムは筋肉に、ストロンチウムは骨に蓄積されて体内での被ばくをもたらすため、その降下量の監視・把握は国民の安全の長期的な影響評価の上で重要だった。これらは、政府の放射能対策のための貴重なデータとなった[4]。これらの測定は、後述するようにチェルノブイリ原発事故の際にも重要なデータとなった。


気象研究所の放射化学分析によるストロンチウム90(90Sr)とセシウム137(137Cs)の経年変化。[5]による。


7. チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日、ソビエト連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で多量の放射性物質の放出を伴う事故が発生した。この事故は、発電所内で放射線の急性障害による死者26名、発電所から半径30㎞圏内の住民約9万人が避難するという原子力発電所の大事故として当時の社会に大きな衝撃を与えた[5]。

 事故の情報は、日本では4月28日に報道された。政府は5月4日に放射能対策本部を開催し、雨水を直接摂取する場合はろ過して使用することが望ましいことと、葉菜類については念のため洗浄することが望ましいことなどを国民に発表した[5]。4月30日には放射能対策本部幹事会が開かれ、都道府県と関係機関の観測強化が決定された。気象庁では、4月30日09時から降水放射能、浮遊塵放射能、モニタリングポストの臨時観測を開始した[4]。

 当初は、事故によって放射性物質が地上で放出されたため、遠くまでは輸送されないという予想もあった。しかし、4日に米子と東京の降水放射能及び大阪と東京の浮遊塵放射能に高い値が観測された。10日頃までに各観測官署で平常値を超える放射能が観測され、特に5月8日に秋田での降水放射能の観測値は平常値の約40倍となった。その後は降水放射能、浮遊塵放射能とも値は低下した[4]。

 降水・落下塵放射能観測の実施官署は、5月の試料の採取を毎月から毎週に変更した。気象研究所による5月第1週の試料の化学分析によって、本州中部に多量の放射性物質が降下し、その放射性物質の主な成分はヨウ素131であったことが明らかになった[4]。また、原子炉特有の放射性化学生成物セシウム134が観測されたことは、この放射能が原子炉事故によるものであることを示した[5]。放射能対策本部は、6月6日に日本に降下した放射性物質の量は健康へ影響しないことを公表し、放射能観測体制の強化は終了した[4]。

8. 国際協力

 1950年代の核実験からの放射性物質による汚染の広がりは国際的な問題となり、1955年12月に国際連合は、放射線影響科学委員会(UNSCEAR)を設置した。日本はUNSCEARへの参加を要請され、1956年10月の第2回委員会において、気象庁からの出席者は気象庁の放射能観測の結果を発表した[4]。その後も、第7回(1960年)、第11回(1962年)、第12回(1963年)の委員会に気象庁から関係者が出席した。

 1961年10月の国際連合総会では世界気象機関(WMO)に対して、大気放射能の測定法の標準化、放射能データの国際交換、資料の刊行を早急に開始するよう勧告した(国連決議第1629(XVI))。1962年11月の国際連合総会でもWMOの大気放射能観測と通報計画の早期実施が決議された[4]。

 1957年に始まった国際地球観測年(IGY)(本の11-5-2「IGYと南極観測」を参照)では、その観測対象に放射性物質を加える事が決定された。IGYの期間中には国際間で放射能観測資料を交換することによって、放射性物質をトレーサーとした気象解析を行うことにも重点が置かれた。同年2月東京において気象庁主催で開かれたIGY西太平洋地域会議放射能分析会において、地域の放射能データセンターの設置が決議された。データセンターの業務は、世界各国で得られた大気海水の放射能測定データを1か所に集め、気象解析のためにデータの国際的な利用を促進しようというものあった。同年8月第2回IGY放射能勧告委員会において、日本にデータセンター(WDC C2 for Nuclear Radiation)を置くことが決定され、1958年4月から気象庁観測部においてその業務が開始された[4]。なお、WDCはIGY終了後も存続することとなった。

9. 気象庁における放射能観測の終了

 大気中核実験の終息後、大気放射能観測の対象は原子力施設が主となった。原子力災害対策では、放射性ヨウ素等の監視が必要であるため、放射性核種分析が重要となった。2005年2月に気象庁は、気象研究所とともに降水放射能の観測官署に新たに降水の核種分析の導入を含めて新しい放射能観測体制を検討した。

 2005年に政府によって放射能の効率的な観測体制のあり方が検討された。その結果、環境省や都道府県等の観測体制が十分に整備されていることから、放射能観測についてはそれらの機関で行うこととし、気象庁の放射能観測は廃止されることが決まった。それを受けて、気象庁の放射能観測業務は、2006年3月31日で終了した[4]。

 各官署の観測結果、気象研究所の放射化学分析の結果及び微気圧観測の結果は、1955年から「大気放射能観測成績」として刊行され公表された。大気放射能観測成績は第1号から51号(1968年)までは年4回、1970年からは年1回刊行された。その後、1993年からは「放射能観測成績」、2003年からは「放射能観測報告」と名称が変わった。放射能観測報告は、観測の終了に伴い2007年に最後の№89号が発行された[4]。

(このシリーズ終わり)

東日本大震災による福島原発の事故による放射能量を知りたい方も多いと思われる。興味のある方は以下のウェブサイトである程度はわかるのではないかと思う。

公益財団法人日本分析センター
https://www.kankyo-hoshano.go.jp/01/0101flash/01010211.html

北海道立衛生研究所
http://www.iph.pref.hokkaido.jp/eiken_housyanou/fallout_link.htm

日本分析センター、平成 25 年度  放射線監視結果収集調査委託業務成果報告書
https://www.nsr.go.jp/data/000165510.pdf


参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.
[4] 地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史、測候時報、73、6、気象庁、117-154.
[5] 気象研究所(2007)Artificial Radionuclides in the Environment 2007、 ISSN 1348-9739.
[6] 原子力委員会(1986)ソ連チェルノブイル原子力発電所事故と我が国の対応.原子力白書.(http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1986/index.htm)


2021年2月14日日曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(5)

 4.6    放射能ゾンデ

 1954年夏から気象研究所において、高層大気中の放射能を測定するために、ラジオゾンデをベースにした放射能ゾンデの開発が始められた。この測定は、成層圏の放射性物質の残量及び降下状況の推定のため、核実験で放出されたセシウム137からのガンマ線量を地表から高度約30 ㎞までゾンデにより観測するものである。1959年から高層気象台で観測が開始された。当初は感部にGM管を用いていたが、高層気象台ではガンマ線エネルギー分布を求めることができるタリウム化ヨウ化ナトリウム(NaI)を感部に用いたシンチレーション検出器の開発に成功し、1973年からはそれを感部に用いたゾンデに変更された[3]。

 

放射能ゾンデ
Sonde for radioactivity

 観測結果の経年変化から、1980年10月の中国核実験の影響が高層大気中にしばらく残っていたことがわかっている。また1987年の観測ではチェルノブイリ原発事故の影響が高層大気まで現れていること等が明らかになった[4]。

大気放射能(ガンマー線)の最大計数値とその高度の経年変化(気象庁「放射能観測成績」より)。縦バーは毎分の最大計数値(左軸)、青印はその観測高度(右軸)。
Time Series of Maximum Atmospheric Gamma-Radioactivity

5. 主な観測成果

 気象庁による放射能観測は、住民に降り注ぐ放射能の監視という役割もあったが、放射性物質をトレーサーとして使うことにより、大気の振る舞いを気象学的に解明することにも貢献した。

 1956年ころから気象庁の放射能観測もようやく軌道にのった。大型の核実験が行われると微気圧観測結果や国外からの情報をもとにしてその発生源と発生時刻を知り、更に流跡線解析図法により日本に降下した放射性物質の経路を追跡することができるようになった。ビキニ環礁からの放射性物質は、貿易風に乗って西に移動してからフィリピン付近で小笠原高気圧の周辺に沿って北上し、日本に来るまでにおよそ1~2週間かかることがわかった。南西シベリアや北極海のノバヤゼムリヤからのものは、偏西風に乗って急速に東に移動し、およそ3日から1週間で到達することが分かった[3]。

 フランスは1960年2月13日にサハラ砂漠で核実験を行った。雨水の放射能測定がこれによる放射性物質を捉えることに成功した。この放射性物質は西風に乗っておよそ2週間で日本上空に達し、日本上空で寒冷前線に伴った降雨に捕らえられて降下したことが、放射能観測と気象解析の結果からはっきり確認された。この結果は国連放射線影響科学委員会(United Nations Scientific Committee on the Effect of Atomic Radiation:UNSCEAR)の報告書にも掲載された[3]。

 放射性物質が中緯度に沿って西から東へ地球を一周した場合、一度検出されたものがおよそ2週間後に再び検出されることも度々あった。このようにして、北半球で核実験が行われると、それがどこであっても必ず日本に放射性物質の影響があることが明確になった[3]。

 大気中の核実験による放射性物質の降下量は、1961年から1962年に行われた大規模核実験により、翌年の1963年に最大値を観測した。この成層圏に大量に注入された放射能は、その降下を地上で観測することによって、気象学の新たな知見の発見に貢献した。それらには、成層圏での放射性物質の滞留時間、南北両半球間の大気の交換時間、成層圏と対流圏間の大気の交換過程、特に春季の降下量の極大(スプリングピーク)などの季節変化、成層圏内での物質の輸送など、それまで未知であった気象のメカニズムの解明が含まれている[5]。

 その後、1963年に「部分的核実験禁止条約」が締結されて米英ソの大気中核実験が中止された結果、降下量はおよそ1年後から減少した。しかし、中国及びフランスにより大気中核実験は続けられ、放射性物質の降下量は増減を繰り返した。1980年の最後の中国の大気中核実験の後、放射性物質の降下は徐々に減少し、1985年には1957年の観測開始以降最も低いレベルになった。しかし、1986年、旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所事故により、大気中の放射性物質は日本でも1963年に近いレベルに達するほど一時的に増加した。この事故により放出された放射性物質の大部分は対流圏の滞留時間(25日)で減少したが、セシウム137の一部は地上から成層圏に輸送されたことが分かった[5]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.
[4] 地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史、測候時報、73、6、気象庁、117-154.
[5] 気象研究所(2007)Artificial Radionuclides in the Environment 2007、 ISSN 1348-9739.