2021年4月9日金曜日

南方振動の発見者ギルバート・ウォーカー(1)

 1. はじめに

イギリスのギルバート・ウォーカー(Gilbert Walker, 1868-1958)は、若い頃からケンブリッジ大学の数学者として傑出した才能を持っていた。しかし彼は、自身の人生を主に気象学者として過ごすこととなった。彼は数学者なのに季節予報を行うためにわざわざ遠いインドへ気象局長官として赴任した。当時モンスーンのような毎年変動する季節現象を予報するための確立した方法はなく、彼はインド・モンスーンの変動の予兆を探るために、世界各地の気象観測結果を統計学の相関係数や回帰式という数学を駆使して、幅広い時間・空間にわたる解析という膨大な作業を行った。それは、それまでの因果関係を探るという気象学の手法とは全く異なった斬新なものだった。

彼による研究の結果、それまでの手法ではわからなかったことが明確になった。その一つが気圧の変動である「南方振動」であり、今日「エルニーニョ・南方振動(ENSO)」として知られているものである。また、この研究は統計学の進歩も促し、「ユール・ウォーカー式」という自己相関における新たな数学的手法も生み出した。この数学手法は現代の気象学における時系列解析だけでなく、電波工学、金融工学、音響工学などさまざまな分野において、自己相関を用いた解析に重要な役割を果たしている。そしてそれを用いた計算式は最新の解析ソフトウェアに組み込んである場合もある。そして、これら南方振動とユール・ウォーカー式は、どちらもモンスーンの予報という同一の研究の中から生まれたものである。

ウォーカーはインドから戻った後にナイトに叙せられ、王立気象学会のサイモンズ・メダルと王立航空協会のシムズ・メダルを授与された。それでも当時、彼の功績は十分に評価されたものとはいえなかった。彼の発見の偉大さが本当に認識されたのは、1950年末から南方振動がエルニーニョと密接に関係していることがわかり、1960年代にそれらが世界の気象に及ぼす影響とメカニズムがおおよそわかってからのことである。

ギルバート・ウォーカー

現在ではエルニーニョと南方振動は、合わせてエルニーニョ・南方振動(ENSO)と呼ばれることが多い。また、ENSOと密接に関連している赤道上空の東西風には、ENSOの仕組みを解明した気象学者ヤコブ・ビヤクネスによって「ウォーカー循環」という名称が与えられている。今日ではエルニーニョが起こると全世界の人々が異常気象に注目し、またそれによって起こる世界各地での気候変動はテレコネクションと呼ばれて、新しい研究分野となっている。なお、ここではENSOの仕組みについては詳しく述べないが、詳しく知りたい方は気象庁の「エルニーニョ/ラニーニャ現象とは」などを参照していただきたい。

また、ウォーカーはブーメラン、スケート、水彩画、フルートなど他にもプロフェッショナル並の趣味を持っており、特にブーメランについてはその名手としてだけでなく、その飛び方の理論的な研究を行ったことでも知られている。ウォーカーの生涯については、文芸的な作品としてJohn D. Cox著による「Storm Watchers」(邦題「嵐の正体に迫った科学者たち」)の中にウォーカーの章がある。また本書「気象学と気象予測の発達史」では「エルニーニョと南方振動の発見」のところで簡単にウォーカーについて触れている。ここでは異色の気象学者である彼について、彼の数学的な成果も含めて詳しく系統的にまとめておきたい。

つづく

2021年2月20日土曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(6)

6. 気象研究所における放射能研究

 気象研究所では既に1954年4月から落下塵や降水中、海水中の放射性物質の観測を行っていた。気象研究所の三宅泰雄博士は、1954年に国内各地の大学で観測された雨の放射能データを集め、全国的な実態について研究した。また、政府が1954年及び1956年に行った俊鶻丸(しゅんこつまる)によるビキニ海域での放射能調査にも参加した[4]。

 1957年に原子力委員会が「放射能調査計画要綱」を定めると、1958年1月から気象研究所は落下塵、降水、海水中の放射性物質の放射化学分析を開始した。この研究のための試料採取は、科学技術庁の放射能調査研究費による「地表大気の放射能観測」の一環として11か所の気象官署が担当した。気象研究所は各官署で採取された試料の放射化学分析を行い、セシウム137とストロンチウム90等の降下量を測定した[4]。

 セシウム137とストロンチウム90は人体に取り込まれると、セシウムは筋肉に、ストロンチウムは骨に蓄積されて体内での被ばくをもたらすため、その降下量の監視・把握は国民の安全の長期的な影響評価の上で重要だった。これらは、政府の放射能対策のための貴重なデータとなった[4]。これらの測定は、後述するようにチェルノブイリ原発事故の際にも重要なデータとなった。


気象研究所の放射化学分析によるストロンチウム90(90Sr)とセシウム137(137Cs)の経年変化。[5]による。


7. チェルノブイリ原発事故

 1986年4月26日、ソビエト連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で多量の放射性物質の放出を伴う事故が発生した。この事故は、発電所内で放射線の急性障害による死者26名、発電所から半径30㎞圏内の住民約9万人が避難するという原子力発電所の大事故として当時の社会に大きな衝撃を与えた[5]。

 事故の情報は、日本では4月28日に報道された。政府は5月4日に放射能対策本部を開催し、雨水を直接摂取する場合はろ過して使用することが望ましいことと、葉菜類については念のため洗浄することが望ましいことなどを国民に発表した[5]。4月30日には放射能対策本部幹事会が開かれ、都道府県と関係機関の観測強化が決定された。気象庁では、4月30日09時から降水放射能、浮遊塵放射能、モニタリングポストの臨時観測を開始した[4]。

 当初は、事故によって放射性物質が地上で放出されたため、遠くまでは輸送されないという予想もあった。しかし、4日に米子と東京の降水放射能及び大阪と東京の浮遊塵放射能に高い値が観測された。10日頃までに各観測官署で平常値を超える放射能が観測され、特に5月8日に秋田での降水放射能の観測値は平常値の約40倍となった。その後は降水放射能、浮遊塵放射能とも値は低下した[4]。

 降水・落下塵放射能観測の実施官署は、5月の試料の採取を毎月から毎週に変更した。気象研究所による5月第1週の試料の化学分析によって、本州中部に多量の放射性物質が降下し、その放射性物質の主な成分はヨウ素131であったことが明らかになった[4]。また、原子炉特有の放射性化学生成物セシウム134が観測されたことは、この放射能が原子炉事故によるものであることを示した[5]。放射能対策本部は、6月6日に日本に降下した放射性物質の量は健康へ影響しないことを公表し、放射能観測体制の強化は終了した[4]。

8. 国際協力

 1950年代の核実験からの放射性物質による汚染の広がりは国際的な問題となり、1955年12月に国際連合は、放射線影響科学委員会(UNSCEAR)を設置した。日本はUNSCEARへの参加を要請され、1956年10月の第2回委員会において、気象庁からの出席者は気象庁の放射能観測の結果を発表した[4]。その後も、第7回(1960年)、第11回(1962年)、第12回(1963年)の委員会に気象庁から関係者が出席した。

 1961年10月の国際連合総会では世界気象機関(WMO)に対して、大気放射能の測定法の標準化、放射能データの国際交換、資料の刊行を早急に開始するよう勧告した(国連決議第1629(XVI))。1962年11月の国際連合総会でもWMOの大気放射能観測と通報計画の早期実施が決議された[4]。

 1957年に始まった国際地球観測年(IGY)(本の11-5-2「IGYと南極観測」を参照)では、その観測対象に放射性物質を加える事が決定された。IGYの期間中には国際間で放射能観測資料を交換することによって、放射性物質をトレーサーとした気象解析を行うことにも重点が置かれた。同年2月東京において気象庁主催で開かれたIGY西太平洋地域会議放射能分析会において、地域の放射能データセンターの設置が決議された。データセンターの業務は、世界各国で得られた大気海水の放射能測定データを1か所に集め、気象解析のためにデータの国際的な利用を促進しようというものあった。同年8月第2回IGY放射能勧告委員会において、日本にデータセンター(WDC C2 for Nuclear Radiation)を置くことが決定され、1958年4月から気象庁観測部においてその業務が開始された[4]。なお、WDCはIGY終了後も存続することとなった。

9. 気象庁における放射能観測の終了

 大気中核実験の終息後、大気放射能観測の対象は原子力施設が主となった。原子力災害対策では、放射性ヨウ素等の監視が必要であるため、放射性核種分析が重要となった。2005年2月に気象庁は、気象研究所とともに降水放射能の観測官署に新たに降水の核種分析の導入を含めて新しい放射能観測体制を検討した。

 2005年に政府によって放射能の効率的な観測体制のあり方が検討された。その結果、環境省や都道府県等の観測体制が十分に整備されていることから、放射能観測についてはそれらの機関で行うこととし、気象庁の放射能観測は廃止されることが決まった。それを受けて、気象庁の放射能観測業務は、2006年3月31日で終了した[4]。

 各官署の観測結果、気象研究所の放射化学分析の結果及び微気圧観測の結果は、1955年から「大気放射能観測成績」として刊行され公表された。大気放射能観測成績は第1号から51号(1968年)までは年4回、1970年からは年1回刊行された。その後、1993年からは「放射能観測成績」、2003年からは「放射能観測報告」と名称が変わった。放射能観測報告は、観測の終了に伴い2007年に最後の№89号が発行された[4]。

(このシリーズ終わり)

東日本大震災による福島原発の事故による放射能量を知りたい方も多いと思われる。興味のある方は以下のウェブサイトである程度はわかるのではないかと思う。

公益財団法人日本分析センター
https://www.kankyo-hoshano.go.jp/01/0101flash/01010211.html

北海道立衛生研究所
http://www.iph.pref.hokkaido.jp/eiken_housyanou/fallout_link.htm

日本分析センター、平成 25 年度  放射線監視結果収集調査委託業務成果報告書
https://www.nsr.go.jp/data/000165510.pdf


参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.
[4] 地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史、測候時報、73、6、気象庁、117-154.
[5] 気象研究所(2007)Artificial Radionuclides in the Environment 2007、 ISSN 1348-9739.
[6] 原子力委員会(1986)ソ連チェルノブイル原子力発電所事故と我が国の対応.原子力白書.(http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1986/index.htm)


2021年2月14日日曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(5)

 4.6    放射能ゾンデ

 1954年夏から気象研究所において、高層大気中の放射能を測定するために、ラジオゾンデをベースにした放射能ゾンデの開発が始められた。この測定は、成層圏の放射性物質の残量及び降下状況の推定のため、核実験で放出されたセシウム137からのガンマ線量を地表から高度約30 ㎞までゾンデにより観測するものである。1959年から高層気象台で観測が開始された。当初は感部にGM管を用いていたが、高層気象台ではガンマ線エネルギー分布を求めることができるタリウム化ヨウ化ナトリウム(NaI)を感部に用いたシンチレーション検出器の開発に成功し、1973年からはそれを感部に用いたゾンデに変更された[3]。

 

放射能ゾンデ
Sonde for radioactivity

 観測結果の経年変化から、1980年10月の中国核実験の影響が高層大気中にしばらく残っていたことがわかっている。また1987年の観測ではチェルノブイリ原発事故の影響が高層大気まで現れていること等が明らかになった[4]。

大気放射能(ガンマー線)の最大計数値とその高度の経年変化(気象庁「放射能観測成績」より)。縦バーは毎分の最大計数値(左軸)、青印はその観測高度(右軸)。
Time Series of Maximum Atmospheric Gamma-Radioactivity

5. 主な観測成果

 気象庁による放射能観測は、住民に降り注ぐ放射能の監視という役割もあったが、放射性物質をトレーサーとして使うことにより、大気の振る舞いを気象学的に解明することにも貢献した。

 1956年ころから気象庁の放射能観測もようやく軌道にのった。大型の核実験が行われると微気圧観測結果や国外からの情報をもとにしてその発生源と発生時刻を知り、更に流跡線解析図法により日本に降下した放射性物質の経路を追跡することができるようになった。ビキニ環礁からの放射性物質は、貿易風に乗って西に移動してからフィリピン付近で小笠原高気圧の周辺に沿って北上し、日本に来るまでにおよそ1~2週間かかることがわかった。南西シベリアや北極海のノバヤゼムリヤからのものは、偏西風に乗って急速に東に移動し、およそ3日から1週間で到達することが分かった[3]。

 フランスは1960年2月13日にサハラ砂漠で核実験を行った。雨水の放射能測定がこれによる放射性物質を捉えることに成功した。この放射性物質は西風に乗っておよそ2週間で日本上空に達し、日本上空で寒冷前線に伴った降雨に捕らえられて降下したことが、放射能観測と気象解析の結果からはっきり確認された。この結果は国連放射線影響科学委員会(United Nations Scientific Committee on the Effect of Atomic Radiation:UNSCEAR)の報告書にも掲載された[3]。

 放射性物質が中緯度に沿って西から東へ地球を一周した場合、一度検出されたものがおよそ2週間後に再び検出されることも度々あった。このようにして、北半球で核実験が行われると、それがどこであっても必ず日本に放射性物質の影響があることが明確になった[3]。

 大気中の核実験による放射性物質の降下量は、1961年から1962年に行われた大規模核実験により、翌年の1963年に最大値を観測した。この成層圏に大量に注入された放射能は、その降下を地上で観測することによって、気象学の新たな知見の発見に貢献した。それらには、成層圏での放射性物質の滞留時間、南北両半球間の大気の交換時間、成層圏と対流圏間の大気の交換過程、特に春季の降下量の極大(スプリングピーク)などの季節変化、成層圏内での物質の輸送など、それまで未知であった気象のメカニズムの解明が含まれている[5]。

 その後、1963年に「部分的核実験禁止条約」が締結されて米英ソの大気中核実験が中止された結果、降下量はおよそ1年後から減少した。しかし、中国及びフランスにより大気中核実験は続けられ、放射性物質の降下量は増減を繰り返した。1980年の最後の中国の大気中核実験の後、放射性物質の降下は徐々に減少し、1985年には1957年の観測開始以降最も低いレベルになった。しかし、1986年、旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所事故により、大気中の放射性物質は日本でも1963年に近いレベルに達するほど一時的に増加した。この事故により放出された放射性物質の大部分は対流圏の滞留時間(25日)で減少したが、セシウム137の一部は地上から成層圏に輸送されたことが分かった[5]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.
[4] 地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史、測候時報、73、6、気象庁、117-154.
[5] 気象研究所(2007)Artificial Radionuclides in the Environment 2007、 ISSN 1348-9739.



2021年2月9日火曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(4)

 4.4    微気圧計

 旧ソビエト連邦は1949年8月から一連の核実験を開始したが、核実験を行う際には予告がなかった。日本で濃度の高い放射能雨が観測された際に、その原因が分からないことがあり、それが日本の住民の不安を駆り立てた。もし核爆発によって起こる微小な気圧波を日本で検知できれば、地震波の到達時刻から震源を求める方法と同じやり方で、世界中の大気中の大規模核実験を捉えることが可能だった。

 気象庁は1956年4月から全国8か所(稚内、釧路、秋田、輪島、東京、米子、室戸岬、鹿児島)の気象官署で徴気圧変動の観測を開始した。この観測に用いる微気圧計は、気象庁職員が開発したもので、微少な気圧変動をペンレコーダーで記録した。その能力は1 hPaの気圧変動を記録紙上で約20~30 cmの変動に拡大する感度を持っていた[3]。各観測地点の観測時刻の差と最大振幅は、核実験の行われた位置と規模を知る手がかりとなった。

 核実験による気圧波を検出したのは、観測開始から1962年末までに81回を数えた。その大部分はメガトン級の爆発力をもった核実験によるものだった。最大振幅を記録したものは、1958年6月27日早朝にエニウェトク環礁で行なわれた8.9メガトンのアメリカの水素爆弾の核実験によるものだった。これは実験が予告されていたため、核実験の報道の方が気圧波の到着より早かった。報道関係者は予め徴気圧観測室に待機して、気圧波の到着予定時刻に彼らは微気圧計の実際の針の動きをTVカメラで撮影した。この時の記録の最大振幅は0.9 hPa以上で、ペンが記録紙からはみ出した。この微気圧計が変動する模様は翌日のテレビで放送された[3]。


南太平洋での実験による微気圧波の観測例(1956年7月11日)
Microbarograph observation sample for a nuclear test in the Southern Pacific

 当時、大型核実験の多くは南太平洋の環礁や北極圏の島で行われた。その場所は東京からそれぞれ5500 km及び6200 km位離れており、爆発の際に発生した気圧波が日本に達するのに3~6時間かかった。多くの場合、前記のように予告のために観測より核実験の報道の方が早かった。それでも情報の信頼性を確かめることができるため、気象庁の徴気圧観測は国内や国外の様々な機関からの信頼を受けた[3]。

 北極圏での実験微気圧波の観測例(1958年2月23日)
Microbarograph observation sample for a nuclear test in the Arctic Circle

 後述するように業務としての気象庁の放射能観測は廃止されたが、同様の微気圧振動による大気圏内核実験の監視は、包括的核実験禁止条約(Comprehensive Nuclear Test Ban Treaty:CTBT)に基づく国際監視制度の中で行われている。

4.5    モニタリングポスト

 モニタリングポストとは、地表空間のガンマ線を連続的に測定し、環境放射能レベルの推移を常時把握するものである。核実験や放射能事故等の時に、フォールアウト(降下した放射性物質)の初期降下時刻、その強さ及び変動状況を迅速に把握するのが目的である。装置は検出部と測定部で構成され、検出部では検出器にタリウム化ヨウ化ナトリウム(NaI)を用い、入射したガンマ線によるシンチレーションを光電子増倍管で増幅しパルス電流に変換する[3]。

モニタリングポスト(気象庁の「放射能観測成績」より)
Monitoring post

 1967年7月6日に政府の放射能対策本部は13地点のモニタリングポストの設置を決定した。そのうち輪島と旭川の2地点の観測を気象庁が受け持つことになった。それらは1969年3月から観測を開始した[3]。気象庁の観測値の解析結果から、降水時の放射能の変動が季節にかかわりなく必ず現れ、変動度の大小はあるがしゅう雨性の降水の方が持続性の降水に比べ値が常に大きい特徴があること等が示された[4]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake
1954The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August 1954 Papers in Meteorology and Geophysics,  5, 173-177.
[3]
気象庁(1975)放射能観測業務回顧, 気象百年史 資料編, 267-272.
[4]
地球環境・海洋部環境気象管理官(2006)放射能観測50年史, 測候時報, 73, 6, 気象庁, 117-154.


2021年2月2日火曜日

大気圏核実験に対する放射能観測(3)

 4.2 浮遊塵の放射能観測

 浮遊塵の放射能観測では、放射線を測定するために、週に3回集塵装置で地表から1 mの高さの空気を毎時約1.5 m3の割合で5時間吸引し、空気に含まれている塵をフィルタに吸着させた。吸引量は1964年4月から毎時60 m3に増やされた[4]が、観測は1970年6月から週1回に変更された。塵が吸着したフィルタは電気炉で灰化されて、その灰から放出される全ベータ線量がGM計数装置を用いて測定された。

集塵装置
Airborne Dust collecting system

全ベータ線測定
Gross Beta-Radioactivity


 以下に測定結果の経年変化を示す。

浮遊じんの全β放射能月平均濃度の経年変化図。上から札幌、東京、福岡。(気象庁「放射能観測成績」より)
Time Series of Monthly Mean Concentration of Gross Beta-Radioactivity in Airborne Dust

 改めて後述するが、1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故が起こると、事故で放出された放射性物質が日本でも観測された。本来核実験を想定して行われていた気象庁の降水降下塵や浮遊塵の全ベータ線測定では、原子力発電所等の事故によって放出されて人体へ影響を及ぼす放射性物質であるヨウ素131やセシウム137等を区別して検出することができなかった。それは原子力発電所の災害に対しての監視が十分でないことを意味した。

 1987年から管区気象台において放射性物質の種類を特定するためのガンマ線核種分析装置の導入が開始された。核種分析では塵を吸着させたフィルタを測定容器に入れ、その容器は高純度ゲルマニウム結晶の半導体検出器を用いたガンマ線核種分析装置により7200秒間測定された。その結果を多重波高分析器(Multi Channel Analyzer)を用いたガンマ線のエネルギースペクトル分析にかけることにより、放射性核種(セシウム137、ヨウ素131等)ごとに量が特定された。半導体検出器は、ノイズを減らすために液体窒素で-200℃に冷却され、また外部からのガンマ線の影響を受けないように鉛で遮へいされた[3]。

4.3 放射性ガスの連続観測(放射能レーダー)

 原子炉の基礎研究を行うために1956年に日本原子力研究所(Japan Atomic Energy Research Institute)が発足し、茨城県東海村に研究用原子炉が建設された。東海村から15 km南には水戸市がある。もし原子炉の事故が起こると水戸市の住民がその被害を受ける懸念があった。そのためには空気中に含まれる放射性ガスを連続的に測定する必要があり、1962年2月から水戸地方気象台で放射能の測定を行うことになった。

 原子力施設から出て来る放射性ガスを測定する方法として、放射性ガスの電離作用によって発生した電磁電流の変動を自動記録することになった。放射能観測は、水戸地方気象台内に新しく建てられた建物の屋上から空気を大きな電磁箱内に引き込み、箱の中の電離電流を振動容量電位計で測定して、その値は自動記録された。

 放射性ガスの観測は、1962年2月10日から水戸地方気象台で開始された。翌朝の地元紙は、大きな見出しで「原子力研究所を監視する水戸地方気象台の放射能レーダー」という記事を載せた。レーダーという言葉は比喩として使われただけで、実際の観測方法はレーダーの原理とは全く関係はなかった。観測の開始後に東海村での原子炉に大きな事故はなく、またこの測定はノイズの影響を受けやすいために1966年4月に廃止された[3]。

つづく

参考文献(このシリーズ共通)

[1] https://en.wikipedia.org/wiki/Castle_Bravo
[2] Miyake(1954)The artificial radioactivity in rain water observed in Japan from May to August、 1954、 Papers in Meteorology and Geophysics、 5、 173-177.
[3] 気象庁(1975)放射能観測業務回顧、気象百年史 資料編、267-272.