2019年9月25日水曜日

気候学の歴史(2)当初の気候観測と人間生活の関わり(History of Climatology (2): The relationships between initial climate observation and human life)


 18世紀以降、イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)による「人間による自然の解明と利用」という考えが広まってくると、本の3-2「科学的な考え方への転換」に記したように各地の気象観測には、普遍的な自然法則を帰納的に導き出すためのデータの収集と蓄積という面が加わった。アメリカの政治家トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743-1826)など当時の大勢の人々は、法則性がわかれば土地の開拓が局所あるいは地域の気候を人間に有利に変えることができると思っていた[1]

 そういった蓄積された気象データに目を向けることによって、フランスの歴史家ジャン=バティスト・デュボス(Jean-Baptiste Dubos, 1670-1742)や思想家シャルル・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689 -1755)は、本の3-3-4「医学や農業への気象データの利用」に記したように気候と人類文明発達との関係を考察した。またアメリカの自然科学者ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790)は、本の3-6-2「ベンジャミン・フランクリン」に記したように大規模な火山噴火が、その後の冷夏と厳冬という人間生活に大きな影響を与える気候変動を引き起こしているかもしれない、という画期的な考えを初めて示した。

 19世紀に入ると、それまでの地域的な気候と異なり、系統的に世界の気候を調べることが始まった。その代表的な研究者はドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander, von Humboldt, 1769-1859)で、本の5-1-1「アレクサンダー・フォン・フンボルトについて」に記したように、彼は58か所の地点の気象データを用いて1817年に北半球の緯度・経度上に等温線を示した有名な気候図を作成した。1823年にアメリカの聴覚障害者の学校教師だったウィリアム・ウッドブリッジ(William Woodbridge, 1794 -1845))がフンボルトの協力を得て、それを海岸線を含めた全世界の図に拡張した。ドイツの気象学者でフンボルトとも親交のあったハインリッヒ・ドーフェ(Heinrich Dove, 1803-1879)は、1852年に900か所の観測所データを使って気候図を年平均値ではなく月平均気温の図にして発表した。

 また18世紀頃から人々は健康と気候との関係に注目し始めた。これはギリシア時代の医師ヒポクラテスの生気象の考えを復活させて、観測データを使って発展させようとする面があった。本の3-3-4「医学や農業への気象データの利用」に記したように、18世紀後半からドイツの医師カノルドやイギリスの医師アバースノットは気候と健康の知識の普及を図ったし、フランスの財務総監デュルゴーやアメリカ陸軍は、健康と気象との関係を調べるために気象観測網を作って観測を行った。また19世紀に正規分布という数学を使って平均的な人間像とそのばらつきを示して自然科学の統一を推進した「近代統計学の父」アドルフ・ケトレー(Adolphe Quetelet, 1796-1874)は、統計学を気候学に適用して、気候がどのように人間の健康に影響を及ぼすかを調べた。

 アメリカの海軍士官マシュー・モーリー(Matthew Maury, 1806-1873)は1852年に各海洋上で平均的な風向や海流を示した「Wind and Current Chart」を発表した。この情報は船の航海日数を格段に短縮することに貢献した。本の11-1「国際気象機関(IMO)の設立」で記したように、彼は1853年に海洋上の気象観測を共通の手法にするための国際会議をブリュッセルで開催した。これには10か国から代表が出席したが、ベルギーのケトレーを除いて他の出席者は海軍士官だったため観測手法の適用対象は軍艦と自発的に賛同する船に限られた。しかも各国で実際に行われた手法は必ずしも合意した手法とは限らなかったが、とにかくも海上で気象観測を行って結果を残すことが国際的に決められた意義は大きかった。

 19世紀後半になると気象観測結果を電報を使って集めて、嵐に備える警報が発表されるようになった。すると、従来の気候観測のための気象観測網に加えて、警報のための気象観測網が整備されるようになった。両者の観測内容は基本的に同じであるが、警報のためのデータは即時的に必要部分だけ使われたのに対して、気候のための気象データは手間と時間はかかったが各地の結果がきちんと整理され記録として残された。気候観測網は、気象観測網の発達の影響で一時期整理されかけたこともあったが、結局は多くの国で重複しながらも別々に維持された。気候学のための観測ネットワークは、1908年までに世界で2000以上の観測地点から成り、そのほとんどボランティアによって維持された[2]。

つづく

参照文献

[1] Fleming-1998-Historical Perspectives on Climate Change, Oxford University Press.
[2] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press

2019年9月24日火曜日

気候学の歴史 (1)気候(気象)観測の始まり (History of Climatology (1): Beginning of meteorological observations)

 「気象学と気象予報の発達史」(以下「」)では、近代以降は主に天気予報に焦点を当てたため、気候に関する事項は、断片的になっている。そのため、ここで気候学の歴史を概要ながらまとめて説明しておきたい。

 もともと気象を観測する目的は、湖の水位や川の流量などの水文学と関連することもあったが、その地域の平均的な気象(気温や風、雨量)つまり気候を得ることにあった。平均的な気温や雨量などを示す気候から、その土地に向いた農作物などを知ることができた。本の3-3「学会の誕生と気象観測」に記したように、17世紀のイタリア、トスカーナの「実験アカデミー(Accademia del Cimento)」やイギリス、ロンドンの「王立協会(Royal Society)」は、気象測器を開発して、各地の気候を知るための国際規模の気象観測網を構築した(各気象要素の測定器の開発は本の4章「気象測定器などの発展」に詳しい。これは後の物理や化学の発展の礎を築いた)。後の様々な組織による気象観測網を含めて、各地の気候を知る目的には気象の法則を知ろうとしただけでなく、その地域の気候を知る目的も含まれていたと思われる。

 観測された気象データは本の中で表にして刊行されたが、日々蓄積している膨大な数値を目で見て理解して利用することは容易ではなかった。そのため17世紀頃から観測結果をグラフ化することが始められた。オックスフォード大学の自然研究者ロバート・プロット(Robert Plot, 1640-1696)は,1684年に気圧値を線グラフ化して王立協会の「哲学紀要(The Philosophical Transactions of the Royal Society)」に発表した。オランダの科学者ペトルス・ファン・ミュッセンブルーク(Pieter van Musschenbroek, 1692-1761)は1729年に出版した『実験物理学・幾何学論考(Dissertationes physicae experimentalis et geometricae de magnete)』の中でやはり気圧のグラフを示した。これは気象学におけるグラフの普及に影響をおよぼした[1]。その前後から観測結果を各地でグラフ化して分析することが行われるようになったようである。


「実験物理学・幾何学論考」中のウルトラジェクティナ州の気圧の変化(1月)。
Dissertationes physicae experimentalis et geometricae de magneteより

 また本の3-4-1「広域で定常的に吹く風の発見に記したように、16世紀頃からの大航海時代に積み重ねられた大西洋や太平洋、インド洋上の風の知識から、17世紀頃には恒常風と呼ばれるほぼ年間を通して向きが変わらない風があることもわかってきた。これらの風の情報は帆船での航海を安全かつ効率的にすることに貢献した。

 この地球規模の風が持つ規則性に注目した人々がいた。ハレー彗星で有名なイギリスの天文学者エドモンド・ハレー(Edmond Halley, 1656-1742)はセントヘレナ島へ行った際の経験などから、17世紀に貿易風やモンスーンの原因を考察した。彼は、本の3-4-2「ハレーによる貿易風の説明」に記したように赤道域の太陽によって熱せられた空気が上昇する領域が、時刻が移ると太陽とともに西に動くため、低層で東風が吹くと考えた。これは今日から見ると間違っているが、多くの書物に取り上げられて、19世紀まで広く信じられた。なお彼は赤道域の卓越風の風向図も1688年に哲学紀要に発表した。彼は磁気の等偏角線の図も発表しており、これが等値線を地図にするという考え方の始まりとなった。この等値線を描いた地図はフンボルトの気候図などに引き継がれていった。

 王立協会の気象観測網からのデータ整理を担当していたイギリスのジョージ・ハドレー(George Hadley, 1685-1768)は18世紀にハレーの説を否定して、本の3-4-3「ハドレーによる大気循環の説明」に記したように、熱帯域で上昇した空気は上層で高緯度へ向かい、やがて下降して赤道に戻る。その際に低緯度の方が地球自転による速度がより速いため、低緯度に向かう空気は赤道域で東風になることを示した。彼はこの大気の流れを「循環(circulation)」という言葉で表した。それ以降、今日に至るまで地球規模の大気の流れは「循環」という言葉を使って表されている。彼の説は19世紀になってから、ハレーの説に変わって取り上げられるようになった。

つづく

参照文献

[1] 濱中 春-2017-面と線の意味論 : ゲーテと1820年頃の気象学のダイアグラム, 社会志林, 64-, 3, 41-67, http://hdl.handle.net/10114/13821

2019年7月28日日曜日

「気象学はこうして生まれ発展してきた」

月刊「望星」(東海教育研究所)は8月号で「天気は悪くありませんー気象予報の2000年」という特集を組んだ。私は編集部から取材を受けて、その内容はその特集の中で「気象学はこうして生まれ発展してきた」というタイトルの記事になった。

記事の中身は特集の中の「天気予報ことはじめ」とあわせて「気象学と気象予報の発達史」の概要を知るには格好の内容となっている。(一部は立ち読みコーナー参照)。「望星」編集部には感謝を申し上げたい。

また、この特集には他にも田家 康氏が「そのとき、天気は動いた?」という題でやはり記事を出されている。同氏は人類と気候との関係に多数の著書を出されている専門家で、人間と気候との関係に興味深い記事を書かれている。また他にも天気と病の関係などの記事もあるので、興味のある方には参考になると思う。

 (次は「気候学の歴史(1) 気候(気象)観測の始まり」)


2019年7月13日土曜日

雪の観察 (Observation of snow crystals)

雪の結晶(snow crystals)は美しいものが多いが、6角形(hexagon)になっているものが多い。そのことに最初に気づいたのは中国の前漢の詩人韓嬰(Han Ying, ~BC200-BC130)とされている。彼が紀元前135年に書いた詩集「韓詩外傳(Han Shi Wai Chuan)」には雪の花には6つの花弁があることが記されている [1]。しかしながら西洋においては、少なくとも記録に残っている限りでは雪が6角形であることに気付くのは遅かった。ドイツのケルンの神学者アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, 1193-1280)は、1260年頃に雪片について星形の記述を残し、スウェーデンの聖職者であったオラウス・マグヌス(Olaus Magnus, 1490-1557)は、1555年に6方の雪のスケッチを残した [1]。

西洋の文献において雪の結晶が6角形であることを初めて主張したのは、1611年にヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)が書いた「6角形の雪片について(Strena Seu de Nive Sexangula)」とされている。彼はその観察の際にレンズを使った拡大鏡を使ったようである[1]。また、1665年にはロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)が「顕微鏡図譜(Micrographia)」において六方晶系の雪の結晶を精密に描いて、軸から分岐した小枝はすべて隣の軸と平行していることを発見した(彼については「ロバート・フックと気象観測 」を参照)。1681年にはイタリアの数学者ドナト・ロセッティ(Donato Rossetti, 1633-1686)が初めて雪を5種類に分類した [2]。

日本においては室町時代後期の公卿である三条西 実隆(Sanjonishi Sanetaka, 1455-1537)が肉眼で観察した雪の結晶を記録して六花と表現した[3]。また江戸時代の蘭学者で浮世絵師でもある司馬江漢(Shiba Koukan, 1747-1818)は顕微鏡を使って絵を描いたが、その中に雪の結晶もある。さらに江戸後期にヨーロッパの訳書から雪の結晶に興味を持った大名がいた。それは私の本の3-6-3「ヘンリー・ピディントン」で紹介した古河藩主土井利位(Doi Toshitsura, 1789-1848)で、天保8年(1837年)に「大塩平八郎の乱」を鎮定したことでも知られている。彼はオランダの教育者ヨハネス・マルチネット(Johannes Florentius Martinet, 1729-1795)が書いた「格致問答(Katechismus de Natuu)」という子供向けの教科書に書かれた雪の結晶図を、通訳である猪俣昌之の訳で知った。それを参考にして自ら雪の結晶を顕微鏡で20年間観察して描いたものを、天保3年(1832年)に「雪華図説(Sekka Zusetsu)」、天保11年(1840年)には「続・雪華図説(Zoku-Sekka Zusetsu)」として刊行した [4]。


浮世絵の着物の柄に使われた
雪花模様

これは私家版として刊行されたためあまり知られなかったが、後に雪国の生活を描いて有名になった「北越雪譜」にその一部が取り入れられたため、広く知られるようになった。「雪華図説」に描かれた雪の模様は、土井家の着物や調度品の模様として使われただけでなく、描かれた雪の模様の美しさは当時の一般の人々の関心を引き、当時の着物や櫛の柄や千代紙の模様などに幅広く使われた。この雪の模様は、歌川国貞や歌川豊国などの浮世絵の中で女性の着物の柄などにも使われている。


セシリア・グレーシャーによる
雪の結晶のスケッチ
イギリスの有名な気象学者グレーシャーの夫人であるセシリア・グレーシャー(Cecilia Glaisher, 1828-1892)も、夫と協力して1855年に151種の雪の結晶を精巧にスケッチして「On the Severe Weather at the beginning of the year 1855: and on Snow and Snow Crystals(1855年初期の顕著気象について:また雪と雪の結晶について)」に発表したことで知られている。このスケッチの素晴らしさは、北海道大学理学部教授で雪の研究の権威だった中谷宇吉郎(Nakaya Ukichiro, 1900-1962)が、著書「雪」の中で触れている。


雪の観察には19世紀末から顕微鏡写真の技術が使われるようになった。雪の結晶に魅せられたアメリカの農夫ウィルソン・アルウィン・ベントレー(Wilson Alwyn Bentley, 1865-1931)はパーキンスとともに「雪の結晶の研究(A Study of Snow Crysitals)」で雪の写真を初めて広く紹介した[1]。彼は生涯に6000種類もの雪の結晶の顕微鏡写真を撮り、その一部は1931年にアメリカ気象学会から「雪の結晶(snow crystals)」という題で出版され、世界的に有名となった。
ベントレーが撮影した雪の結晶
(From A Study of Snow Crysitals)

ナカヤ・ダイアグラム

前述した中谷宇吉郎は、雪の研究で世界的に知られている。彼はベントレーの研究に啓発されて雪の研究を開始し、世界で初めて実験室で人工的な雪を作り出した。またさまざまな実験から、降ってきた雪の結晶の形からその結晶が成長した大気状態が推定できることを発見した。この大気状態と雪の結晶の関係を示した図はナカヤ・ダイアグラム(Nakaya Diagram)として知られている。雪の結晶から上空の大気状態を推定できることから、彼は有名な言葉「雪は天から送られた手紙である」を残した。しかし、この言葉は中谷自身も触れているように、1611年のケプラーによる「雪片は、天国から降りてきて、星のように見える」と述べた研究を踏まえたものである。

(次は「気象学はこうして生まれ発展してきた」

参照文献

[1] Nakamura and Cartwright-2016-De nive sexangula - a history of ice and snow - part 1., Weather, 71, 291-294.
[2] 中谷宇吉郎. 雪. 青空文庫. (オンライン) (引用日: 2018年1月18日.) http://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/52468_49669.html.
[3]Nakamura and Cartwright-2017-Cultural history of the snow crystal, a history of ice and snow - part 3, Weather, 72, 272-275.
[4]. 雪の華-『雪華図説』と雪の文様の世界. 古河歴史博物館. 1995年.

2019年6月26日水曜日

気象観測と時刻体系 (Meteorological observation network and time system)

今では時刻は生活とは切っても切れない重要な役割を果たしているが、産業や物流が発達する前は、その精度は今ほど重要ではなかった。正午とは文字通り太陽がその土地での子午線を通過する時刻だったので、正午は経度によって異なっていた(地方時)。時刻は教会や寺の鐘、あるいは大砲などで知らせており、ほとんどの人にとってはその聞こえる範囲が同じ時刻を共有している範囲と言えた。

人や物の移動速度が遅い時代には、それぞれの地域が地方時を使っていてもそれでほとんど問題は起きなかった。しかし、19世紀半ばからのヨーロッパやアメリカでの鉄道網の発達は、地方時の問題に焦点を当てることとなった。当時はほとんど単線であり、列車は予め
決まった時刻に決まった地点で脇線に待避してすれ違う必要があった。それぞれの列車が出発地点の地方時を用いると、単線上で衝突する恐れがあった。鉄道網の拡大にともなって事故が多発するようになると、これが大きな問題となった。各鉄道会社は線路に発明されたばかりの電信線を引いて、独自の統一した標準時刻体系を整備して衝突を回避するようになった。

一方で、瞬時に情報を伝達する電信の普及も各地の時刻の違いをクローズアップするようになった。電信を使った電報によって起こるようになった問題の一つは、広域で行われる気象観測の時刻だった。19世紀半ばまでの気象観測は気候を目的としており、気候は主に日射によって駆動されることを考えると、気候のための観測時刻はむしろ太陽高度角同期(つまり地方時)の一定時刻の方が都合が良かった。ところが警報のために各地の気象観測の結果が電報で収集されるようになると、それに基づいた天気図の作成は同時刻の観測である必要があった。そうでないと例えば同じ低気圧が天気図上であちこちに現れることとなる。そのため、気象観測(地上実況気象通報)は共通の時刻を用いて各観測所で一斉に行う必要があった。


この問題に最初に取り組んだのはアメリカだった。本の「6-2-5 アッベによるアメリカでの国家気象機関の設立」で書いたように、アメリカの国家気象局であった陸軍信号部の気象学者クリーブランド・アッベ(Cleveland Abbe, 1838-1916)は、全米各地の気象観測所の観測時刻を統一することを考えた。しかし、彼は気象観測網内の時刻の調整ではなく、この際にアメリカ国内の時刻体系を整備しようと考えた。彼は鉄道会社や電信会社の協力を得て報告書を出し、1883年にはアメリカの総合時刻会議が開催されて、子午線を基準に1時間の時差を定義する全米の時刻体系が決定された。


さらに1884年にワシントンで国際子午線会議(International Meridian Conference)が開催され、イギリスのグリニッジ子午線を標準時とする1時間単位の時刻体系を全世界で採用することが決まった(世界標準時)。この時のアメリカ代表は陸軍信号部のアッベだった。これで全世界の時刻が子午線に基づいておおむね1時間単位で揃うこととなった。気象観測は世界の時刻体系の決定に大きな役割を果たした。ただし、肝心の気象観測は、アメリカ以外では20世紀に入ってもなかなか世界標準時に統一されなかったようである。

気象観測時刻の同期の問題は日本でも起こった。本の「7-3-3警報のための諸準備」の所で述べたように、1883年に日本で電報による気象観測の収集が始まると、それまで地方時で行われてきた各地の測候所の観測時刻を統一する必要が出てきた。日本で気象観測体制を作って暴風警報を開始したドイツ人エルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping, 1844-1922)は、統一した観測時刻に京都時を採用した。これは京都は経度的に見て日本の中央に近く、また江戸時代まで天皇が住んでいて日本人に馴染みがあったためのようである。


当時の気象観測は内務省が行っており、国際子午線会議に基づいて1886年に日本標準時の基準を明石市を通る東経135度に選んだのは、内務省の気象観測が京都時を採用していたことも一因となったようである。時刻制度は国の根幹となるインフラストラクチャーの一つである。気象観測は日本の時刻制度の構築にも影響を与えた。

 (次は「雪の観察」)