2025年11月3日月曜日

気象学者でもあった著名な科学者-フランシス・ゴルトン

 雲形を考案したイギリスのルーク・ハワードや電磁気学者であったアメリカのジョゼフ・ヘンリーのように、19世紀までは気象学を専門としない気象学者が数多くいた。ここで述べるイギリスのフランシス・ゴルトン卿(Sir Francis Galton)の場合は、当初気象学の研究を行っていたが、その後、統計学と優生学の方に興味が移ったパターンだった。

現在では、ゴルトンは優生学の創始者として、あるいは統計学の専門家として有名である。後述するように、彼の優生学は一世を風靡したが、それは後年さまざまな問題を引き起こした。その影に隠れてしまったのか、気象学における彼の功績はあまり顧みられることがない。ここでは、ゴルトンの気象学に光を当てる。

フランシス・ゴルトンの写真

ゴルトンの人生

英国人の気象学者であるフランシス・ゴルトンは、18222月にバーミンガムで生まれて、19111月にロンドン郊外のサリーで亡くなった。ゴルトンはチャールズ・ダーウィンの 「半いとこ」であり、ダーウィンと同じ祖父(エラマス・ダーウィン)を持つが祖母は異なる。祖父は医師で詩人である。

ゴルトンは17冊の著書を含む300以上の出版物を出しており、中でも『天才の遺伝(Hereditary Genius)』は最も有名なものの一つである。ゴルトンは独創的で明晰な頭脳の持ち主で、彼が見るほとんどすべてのものに新しい光を当てた。ダーウィンを見てもわかるように、彼の家系は知性が高かったと言われている。彼はものごとを可視化(数値化)することによって、その状況や傾向を明らかにしようとした。それが彼の気象学にも現れている。

ゴルトンはいとこであるダーウィンの自然淘汰論(進化論)に影響を受けたのか、後に人間の遺伝的性質に興味を持った。彼は「優生学」という言葉を作り、彼の遺伝における研究のほとんどは、人間優生学を支援するために行われた。それが後年の学問としての優生学の発展につながった。彼が創始した優生学によって、彼の死後にホロコーストが行われ、日本を含む国々で優生保護法のような施策が行われた。これは彼一人の問題というよりは科学のあり方全体の問題でもあるかもしれない。

測れなかったものを測る

ゴルトンは幅広い好奇心を持っていたことは確かである。彼は祖父と同様に医師の道を目指したが、当時の手術のような荒療治は性格的に不向きであることを悟り、ケンブリッジ大学で数学を学んだ。父の死後に若くして莫大な遺産を手にしたこともあり、世界中を探検して回った。

その後、生活費を稼ぐ必要がなかった当時の資産階級の一部がそうであったように、彼は科学に没頭するようになった。彼はいろんなものを測定(数値化)することに強い興味を持った。それは測定器で客観的に測定できるものに限らなかった。それまで誰も思いつかなかった多くの事象を数値化しようとした。例えば彼は1884年に2人の人間がお互いにどの程度好意を抱いているかを測定する手段として「魅力測定器」というアイデアを思いついた。今でいうマッチングアプリのようなものだろうか。また、講演時の聴衆の熱狂度に関する姿勢から「退屈指数」を考案した。さらに各都市の女性の容姿を分析して、どこに美人が多いかなども分析しようとした。これらには主観がかなり含まれた[5]

客観的な分析としては、ゴルトンは祈りの力について科学的な調査を行った。彼は「祈る人が祈らない人よりも頻繁に目的を達成するかどうか」を明らかにしようとした。1872年、彼は 「祈りの効能に関する統計的研究(Statistical Inquiries into the Efficacy of Prayer)」を発表した。これによって、祈りによって結果に測定可能な差は生じないことを明らかにした。

気象学での功績1―天気図の発展

ゴルトンは、気象学の進歩が遅れているのは、気象観測の結果をコンパクトな図にして俯瞰することが不足しているためと考えた。そのため彼は、総観規模の気流や天気を合理的に図上に表現することを研究した。彼はヨーロッパ内の各気象観測所などの状況を一つの図で表せるような工夫を行い、186112月の毎日のヨーロッパの天気図を作成し、これを1863年に「メテオグラフィカ」として発行したさらにこれには、気圧の分布を13回碁盤目上の図にしたものが含まれた。これは平均気圧からの差を格子上にシンボルで示したものだった。


ゴルトンが作成したメテオグラフィカ(総観気象図)。18611111日のもの。山形の膨らみは風向(○は静穏)。四角内の模様は天候を示す。Galton, METEOROGRAPHICA, Macmillan, 1863より。なお、原本のコピーはGoogle booksから公開されている。

当時、アメリカでの暴風雨論争などを経て、嵐は低気圧域に吹き込む旋風(サイクロン)であることがわかってきていた(サイクロンの語源については「「サイクロン」という言葉について」を参照)。嵐は顕著な気象を伴い能動的であるため、現象として意識に上りやすい。しかし、嵐以外の気圧構造には人々の関心はあまり向かなかった。ゴルトンは気圧分布と風向から、嵐をもたらすサイクロンに対応して、逆に気圧が高い反サイクロン(anti-cyclone: 逆旋風)があることを初めて示した。これは日本では高気圧と訳されている。

1870年以後はゴルトンは気象学の仕事をやめて後述する優生学の研究に打ちこんだため、彼の優れた総観天気図の仕事は途絶した[2]

気象学での功績2―連続的な気象観測

ゴルトンはキュー観測所(Kew Observatory)で働きながら、気象の観測結果を連続して記録するための装置を考案した。それまで行われていた人間が1日に数回、定時で気象を観測して結果を記帳するやり方だと、その間に起こったことは記録されない。彼は感光紙を用いて、観測結果を自動で連続的に記録できるようにした。彼は7か所の気象観測地点の風向、風速、乾・湿球温度、気圧、降水量などの7要素の連続記録を、時間軸をそろえて同一の座標面上に精巧な銅版(リトグラフ)を用いて印刷した。そして、その印刷記録を「メテオグラム」と命名し、これはロンドン気象局から季刊気象報として1869年から12年間にわたって発行された。

一般に公表された定期的な気象資料としては、これはそれまで類をみないほど時間分解能が高いものだった。これは当時は知られていなかった前線の通過などによる、短時間での気象の急変を捉えていた。しかし、この観測結果を用いた詳しい分析は行われなかった。英国気象局の長官で気象学の大御所であったネイピア・ショー卿は、後年に次のように述べている[2]

もし,彼等(気象学者たち)がこの時に最後まで正道を踏んで天気図と自記記録を併用しながら分析していたら,前線の学説を1919年でなくて, 1869年に発表できたことであろう。

この1919年は、ノルウェーの気象学者ヤコブ・ビヤクネスが前線を発見した年を指している(詳しくは「前線を伴った低気圧モデルの100周年」を参照)。

気象学での功績3―新聞での天気図の発行

英国気象局のフィッツロイは、1861年からロンドンで気象予報を開始した(フィッツロイと天気予報(2参照)。それは各地で観測した天候現況とその進行をそのまま時空間的に外挿して予測したものだった。ただしドイツの気象学者ドーフェによる悪天は気流の衝突によって起こるという考えを取り入れてはいた。しかし、それは定理とか法則のようなものではなく、「気象の進行方向において時間とともに同じ状況が起こるだろう」という漠然とした概念だった。政府の仕事としてあいまいな概念だけに基づいた気象予報を行うことは、科学の信用を損なうとして科学界から反発を招いた(当時、似非科学が流行していた)。

1865年にフィッツロイが自殺した後、フィッツロイが行った警報と気象予報の調査が行われることになり、その委員会の委員長をゴルトンが務めた。そしてその委員会で気象予報の廃止が決まった。当時の科学的状況では、仕事として気象予報に手を染めると言うことは、科学者にとって自分の科学者生命を絶つことに近かった。

しかし1875年に、ゴルトンはこの状況に一計を案じた。問題を引き起こし得る気象予報を行わず、前日の天気図を作成してそれを新聞に毎日掲載することにした。これならば過去の事実なので、誰も文句を言えない。天気図に慣れてくれば、一般の人でもそれを見て翌日(つまり今日)の天候がどうなるかを推測することはそれほど難しくない。ただし、それが当たるかどうかは別問題である。それだと外れても自己責任だった。

この天気図は1863年に発行した天気図と異なり、現在のものとかなり似ており、気圧の異なる地域の境界が点線で示され、風向は矢印で示され、風速に応じた矢羽根が付けられていた。また各地の気温(華氏)や沿岸海上の様子も説明されていた。

ゴルトンは187541日からロンドンのタイムズ紙に前日(331日)の天気図を掲載した。これは一般の人々へ、自分が住んでいる上空以外でどういう気象が起こっているのかという気象の啓蒙にもなったのかもしれない。新聞でのこの天気図は大人気となり、他の新聞社も一斉に掲載を始めた。それは今日でも多くの新聞で続いている。

ゴルトンが187541日に発行した天気図

統計学などでの功績

ゴルトンは多くの物事に興味を持っており、徐々に気象学からは手を引いた。彼はデータを分析するための統計理論とそのための手法を発展させた。彼は、指紋は個人によって異なることや、そのアーチ、渦巻き、ループなどのパターンは生涯にわたって安定していることを初めて示した。そして犯罪現場に残った指紋を分析すれば、人物を特定するのに使えることを初めて実証した。この考えはすぐにロンドン警視庁(スコットランドヤード)に採用され、現代においても事件における指紋の照合に活かされている。

ゴルトンは、平均的な「群衆の知恵」を最初に認識した人と言われている。彼は家畜のある品評会に出席した。そこでは村人が牛の体重を当てるよう求められ、800人近くが参加した。ゴルトンは彼らの推測を見たところ、ほとんどすべての推測が間違っている一方で、それらの推測値の平均値はほぼ正しいことを発見した。

当時、統計学としてはベル曲線やガウス分布が知られていたが、それは天文学などにおいて観測の誤差を示すためのものだった。1835年にベルギーの統計学者アドルフ・ケトレは、この「誤差の法則」が多くの人間の身長や胸囲などにも当てはまることを発見し、初めて統計的に「平均的な人間(l'homme moyen)」像を示した。アドルフ・ケトレは気象学者でもある。

ゴルトンはこのガウス分布の適用を逆転させて、初めてばらつき自体の重要性を示した。そして、これが生物学的あるいは心理学的研究に新しい方向性をもたらした。1877年、彼は、ある親子の身体的特徴の間の関係を表すために、「回帰(regression)分析」という数値的手法を発表した。それが主に身体測定データの解析につながった。回帰分析とは、ある事柄と別の事柄(例えば子供の身長と両親の身長、あるいは個人の体重と身長)との関係という曖昧なものに、それを予測する方法を提供するものである。

1888年にはゴルトンはさらに、そのような曖昧な関係の「強さ」を測る手法を開発した。その手法は、雨量と作物の収穫量のように、関係するものが異なる種類であっても適用できるものである。彼はこのより一般的な手法を 相関関係と呼び、その程度を「相関係数」として数値としてを計算する最初の手段を提供した。

ゴルトンは以前の回帰分析の研究から相関係数を示す記号に「r」を使用し、彼はこの係数を-1.0から+1.0までの小数として表現する方法を導入した。これは現在でも使われている。彼はばらつきの尺度として四分位範囲を使った。しかし、これは弟子であるカール・ピアソンによって標準偏差に置き換えられた[1]。この考え方を利用したものは、今では単に「偏差値」と呼ばれて、学校においてテストの成績の分析などに欠かせないものとして利用されている。

それまでの科学は、決定論的な原因と結果の法則(つまり必要・十分条件を満たすもの)に限定されていた。これは、複数の原因がしばしば雑然と混ざり合う生物学の世界などでは見つけにくい。ゴルトンのおかげで、科学は生物学などにおいて統計的法則を尊重するようになった。医学や薬学において施術や薬剤の効能や副作用に関する統計的手法は、現代の医療に欠かせないものである。

優生学の創設

従兄弟であるチャールズ・ダーウィンが1859年に書いた自然淘汰の理論である「種の起源」を読んだことが、ゴルトンを「まったく新しい知識の領域」に導き、彼の遺伝研究への道を開いたようである。ダーウィンは、農家がより良い系統を作るために家畜化した動植物の品種改良を例に挙げた。おそらく人間の進化も同じように導かれるだろうとゴルトンは結論づけた。

ダーウィンが自然淘汰を説明するために、主に生物の身体的特徴の進化について考えていたのに対し、ゴルトンは才能や美徳のような精神的属性にも同じ遺伝性の論理を適用しようと考えた。またゴルトンは、個人の身体的特徴を数値化すれば、出身地、居住地、職業、人種などを超えて、人間を比較できると考えた。彼は1884年のロンドンでの国際健康博覧会で「人体測定研究所」を設置した。彼はそこで、訪れた一般市民の身体的特徴や能力に関するデータを収集した。

ゴルトンは、人間の才能は「天性なのか育ちによるものなのか」をはっきりさせようとした。植物や動物に関するさまざまな遺伝に関する研究による特性の傾向を人間にも当てはめた。そして、人間を向上させる原理を発見したと考えた。これは持って生まれたものを重視する考えであり、選択的交配によって人類を 「改良」するという考えである。彼はギリシャ語で 「良い血統」を意味するユージェニックス(優生学)という言葉を作った。

1900年、グレゴール・メンデルによるエンドウ豆の遺伝に関する研究が明るみに出ると、優生学の名声は一気に高まった。ちなみに、メンデルも気象学の研究を残している。ゴルトンによる優生学は、彼の地位やその科学的説得性によって多くの科学者が共有するところとなって発展した[4]。さらに彼の死後、優生学はそれを用いた政治へと広がっていった。その結果は、大勢の知るところである。

現在において、優生学に基づいたホロコーストや優生保護法などを断罪することはたやすい。しかし、植物や家畜などについては、現在においても品種改良によっておいしいもの、成長が早いもの、病気に強いものなどの人間に都合の良いものが次々に生み出されている。また人間についても、出生前遺伝子検査と選択的妊娠中絶の結果、ヨーロッパではダウン症児の出生数が半減したと言われている[3]。さらに「胚選択」という遺伝子技術によって、両親の精子と卵子の中から最も優れた特徴を持つものが母親の子宮に移植される技術も研究されている[4]。これは将来のデザイナーベイビーへの道を開くかもしれない。これらはゴルトンが創設した優生学の発展形といえるのではなかろうか。

ゴルトンは良くも悪くも人類を変えた一人といえるのかもしれない。現在行われている遺伝子操作が人類にとって本当に良かったかどうかの歴史的判断には、まだまだ時間がかかると思われる。

参照文献

[1] ROGER THOMAS, Encyclopedia of Statistics in Behavioral Science, John Wiley & Sons, Ltd, Chichester, 2005, ISBN-13: 978-0-470-86080-9
[2]
 斎藤直輔、天気図の歴史、東京堂出版、1982
[3] Gunderman, Francis Galton pioneered scientific advances in many fields – but also founded the racist pseudoscience of eugenics, https://theconversation.com/francis-galton-pioneered-scientific-advances-in-many-fields-but-also-founded-the-racist-pseudoscience-of-eugenics-144465
[4] Jim Holt, 2005, MEASURE FOR MEASURE, https://www.lindahall.org/about/news/scientist-of-the-day/francis-galton/
[5] Dan Maier, 2011, Francis Galton: Measuring the immeasurable, Significance, The Royal Statistical Society, September 2011, 122-123