2025年11月14日金曜日

別な科学で有名な気象学者-グレゴール・メンデル

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 初めに

グレゴール・メンデル(1822-1884)は、現在のチェコのモラヴィア地方の科学者で、遺伝に関する「メンデルの法則」で世界的に有名である。しかしご存じの方も多いと思うが、メンデルの法則を記した論文は生前は評価されず、彼は生物学者とはほとんど見られていなかった。彼が行った遺伝に関する研究の価値が認識されたのは、死後16年以上経ってからである。

彼の人生の大半は気象を研究する修道士であり、その後修道院長になったものの、自分のことを気象学者だと名乗っていた(モラヴィア大学設立請願書に気象学者としてサインしている)。もしメンデルの遺伝の研究が有名にならなければ、チェコのローカルな気象学者として位置づけられていただろう。逆に「メンデルの法則」が後にあまりにも有名になったので、彼の気象学者としての業績はあまり知られることがなくなってしまったようである。

 グレゴール・メンデルの写真

メンデルの生涯

幼少期から学生時代

ヨハン・メンデル(「グレゴール」は司祭職に就いてから名乗った)は、1822年にオーストリア領シレジア地方(現在のチェコ共和国ヒニツェ)のハインツェンドルフの農家の家庭に生まれた。彼は父の傍らで農業(植物の栽培、樹木の接ぎ木、養蜂など)を学び、小学校で自然科学を修めた。彼は小学校で最高の成績を修めて優秀であったため、農家の少年としては異例なことに教育の継続を勧められて、中等教育機関であるギムナジウムに進学した[1]

ただ彼は、16歳の時からストレス、絶望感、圧倒感を感じ、集中力の欠如、食欲不振、睡眠障害などを伴う精神的な病をときおり発症した。一種の「適応障害」だったのではないかという説もある[2]。同年(1838年)に彼の父親が事故に遭い、経済的に苦しくなったことも関係していたかもしれない。

彼は1840年にギムナジウムをともかくも卒業し、オロモウツにある大学付属の高等教育機関である哲学研究所で2年間学んだ。ここでも優秀な成績を上げ、ほとんどすべての学問で優秀と評価された。ギムナジウムでの教師の一人と、哲学研究所での物理学教授2人は気象観測を行っており、それが彼が気象学に興味を持つきっかけとなった可能性がある[1]。哲学研究所では精神的な病が再発し、彼はいったん退学したが、翌年復学した。その際の学費は、妹のテレジアが相続した父の財産をメンデルに譲ることによって都合した[2]

聖トーマス修道院とのつながり

哲学研究所で物理学を教えていたフランツ教授が、メンデルの優秀さに目を付けて、シレジア地方中心都市ブルノにあるアウグスチノ会の聖トーマス修道院の修道士に推薦した。21歳の彼はアウグスチノ会の修道士修練生となり、「グレゴール」と名乗った[1]。ここから彼の聖トーマス修道院との一生涯となるつながりが始まる。修道士は修行専門の修道僧とは異なり、説教や奉仕、教育活動の役割を担っていた。

聖トーマス修道院の教会。https://en.wikipedia.org/wiki/St_Thomas%27s_Abbey,_Brno#/media/File:Bazilika_nanebevzet%C3%AD_panny_Marie.jpg

 聖トーマス修道院長ナップは彼を買っていたが、彼が宗教的な仕事に向いていないことに気づき、彼を近くの高校の臨時教師として派遣した。彼は教師の仕事には向いていたようである。生徒からは慕われ、校長からは賞賛された。メンデルは常勤の教師となるため、1850年に教員試験を受けた。物理学の問題は見事な答えを書いたが、口頭試験で精神的な問題により不合格になってしまった[1]

ところが、この時試験委員をしていた元ウィーン大学物理学教授が、メンデルをウィーン大学に送るように進言し、メンデルは1851年から2年間ウィーン大学で学んだ。この時、ウィーン大学には「ドップラー効果」で有名な物理学者ドップラー植物学者フランツ・ウンガーがおり、メンデルに大きな影響を与えた[1]。この時彼は、ウィーン動物植物学会の会員に選ばれ、後に終身会員となっている。

教師と研究者の時代

ウィーン大学を終えてブルノに戻った彼は、中等学校で物理学と自然史を教えた。ここでも彼は教員試験に挑戦したが、やはり精神的な問題から失敗した。しかし、教師の資格がなかったことは彼に大きな影響を与えなかった。彼は教師の仕事をそのまま11年間続けた。そして、彼はそこで本格的に科学研究に没頭した。

一つはエンドウ豆の実験である。メンデルは1854年にエンドウ豆の実験の第一段階を開始し、数百株を栽培してその形質が世代を超えて一定であることを確認した。1856年から1863年にかけて、メンデルは遺伝に関する先駆的な実験を行った。しかし、彼が書いた論文は、当時はほとんど評価されずに埋没した。

二つ目は上記と同じ1854年に、彼は聖アンナ大学病院の医師パヴェル・オレクシクと出会ったことである。オレクシクは町の気象観測者でもあった。彼はブルノ自然科学協会で1848年から行っていた気象観測結果を発表し、メンデルはそれに興味を持った。そしてメンデルは修道院で行っていた気象観測を改善した。後述するように、この観測はオレクシクの死後もメンデルによって継続されるとともに、彼のさまざまな気象研究の元となった。

聖トーマス修道院長時代

1867年にの聖トーマス修道院長のナップが死去すると、その後任の修道院長にメンデルが就任した。しかしこの職は多大な領地を管理する多忙を伴った。また修道院長は地元の名士でもあり、モラヴィア地方のさまざまな学会の会員になるとともに、当地の銀行の副頭取も務めなければならなかった[2]。彼は自分の科学的興味を徐々に放棄せざるを得なくなった。しかし、修道院での気象観測だけは継続した。

さらに、オーストリア帝国が修道院に課す税制を変更したため、メンデルはその反対運動にも身を投じた。当局との長い論争で多くの友人や同僚と疎遠となり、彼の健康状態は悪化した。1883年末には、彼は腎不全とうっ血性心疾患を患い、気象学的観測を行うことができなくなった。彼は188416日に61歳で息を引き取った。修道院長は要職でもあったので、その葬儀は政府の関係者も参列して盛大に行われた。葬儀の際に演奏されたオルガンは、有名な作曲家であるレオシュ・ヤナーチェクが弾いた[2] 

メンデルの気象学

気象観測

オレクシクの影響を受けて、メンデルは1857年に聖トーマス修道院で定期的な気象観測を開始した。それによって、オレクシクが行っていた観測網のデータを自身の観測で補完した。やがてメンデルの気象学者としての名声は高まった。1868年にメンデルが修道院長に選出されると、彼はオーストリア気象学会の会員となり、1878年には病になったオレクシクの代わりに、オーストリア帝国気象観測網のブルノ公式観測官の職務を引き継いだ。オレクシクとメンデルによるブルノの気象観測記録は、チェコ共和国で気温はプラハに次いで2番目、降水量は最も長いものとなっている[5]

メンデルは修道院の敷地内の様々な場所に測器を設置し、ウィーンの中央気象研究所の公式要件に従い、気温、降雨量、風向、気圧、日照時間、地下水位、地上オゾン濃度を記録した [1]。オゾン測定には「シェーンバイン法」を用いた。これはヨウ化カリウムを染み込ませた紙片で、オゾン存在下で色が青色に変化することを利用したものである。日本でも気象観測の初期にはこの手法でオゾン観測が行われている。

嵐や竜巻の解析

メンデルは有名な1866年のエンドウ豆に関する論文より前に、気象学に関する論文をいくつか発表している。その最初の論文は、18578月に87日にブルノで発生し、大雨を伴った雷雨の観察について述べたものだった[3]

1863年には「ブルノにおける気象条件の図表による概観に関する所見」が、ブルノ自然科学協会の紀要に掲載された。これはオレクシクの観測による1848年から1862年までの気温、気圧、風向・風力、雲量、降水量、風向の記録とその解説を記載したものである。さらに郊外とブルノ市内の気温を比較して、ブルノの気温が都市開発による熱で高くなっていることを指摘した。これはオーストリア帝国において、ヒートアイランド現象を科学出版物で初めて発表したものとされている[1]

メンデルはブルノで起こった竜巻も分析した。18701013日の午後、竜巻が聖トーマス修道院の上空を通過した。メンデルは幸運にもその時に修道院の自室にいて、観測した。メンデルは竜巻の形状、進路、速度、そして特に注目すべきは回転方向を詳細に記録した。それによると竜巻は時計回りであり、北半球で通常見られるパターンとは逆だった。メンデルは竜巻の原因を二つの気流の衝突によると推測した。これは50年後の1917年にドイツの気象学者ウェゲナー(大陸移動説で有名である)が提唱した竜巻の成因と本質的に同じである[1](なお、ウェゲナーについてはケッペンについて2」を参照)

大気汚染の観測

また別の論文では修道院と郊外地域でのオゾン濃度を比較している。そしてブルノのオゾン濃度が低いのは、工場の煙などによる大気汚染による煙霧の影響だと結論している[1]。この時がどうであったかはわからないが、工場からの煙には一般にオゾンの発生源となる物質とオゾンを壊す粒子状物質の両方が含まれる。そのため、煙によってオゾンが減った可能性はある。

気象予報などへの関心

18771月にウィーンの中央研究所が電信による気象予報の発表を開始すると、メンデルはモラヴィアにおける農業のための気象予報の価値を熱心に推進するようになった。彼は農業協会を代表して州知事に提言書を提出したり、オーストリア農務省に同様の提言を送付した[1]。また自ら気象予報を行ってみたりしたが、これはあまり成功しなかった。彼は当時の知識では気象予報を出すには不十分であることを自覚していた[4]。そのほか、オーロラや太陽黒点の調査も行っている。

前述したように、晩年になると多忙や病気により科学的な活動は減っていった。その中で、気象観測だけは死ぬまでウィーンの中央研究所へ報告し続けた。

 

メンデルは農家出身であり、農業の振興を基本に考えていたと思われる。彼のエンドウ豆の遺伝実験も気象観測も、元をたどれば農業振興につながっていた。当時彼によるエンドウ豆実験の重要性は認識されなかった。しかし、彼は聖トーマス修道院長としてブルノでは優れた市民指導者であり、主要な気象学者として知られていた。今日では彼は遺伝学の父として世界的に知られるが、反対に気象に関する緻密な分析や記録はほとんど忘れ去られており、現在その再発見が続けられている。

 (次は「 降水量の測定は容易か?」)

参照文献

[1] Mark Alvey, Weatherman Gregor Mendel Plant hybridizing was something of a sideline for this polymathic priest. https://doi.org/10.11118/978-80-7509-904-4-0158

[2] Daniel L. Hartla, Gregor Johann Mendel: From peasant to priest, pedagogue, and prelate, PNAS Vol. 119 No. 30, 2022.

[3] MICHAEL MIELEWCZIK, JANINE MOLL-MIELEWCZIK, MICHAL V. SIMUNEK, UWE HOSSFELD, A previously unknown meteorological publication of Gregor J. Mendel from 1857, FOLIA MENDELIANA 58/2, Supplementum ad Acta Musei Moraviae CVII, 2022

[4] Rožnovský, J., G.J. Mendel´s meteorological observations, Mendel a bioklimatologie. Brno, 3. – 5. 9. 2014, ISBN 978-80-210-6983-1

[5] Jarmila Burianová Kevin Francis Roche, Gregor Johann Mendel Meteorologist, https://www.sci.muni.cz/en/current-news/gregor-johann-mendel-meteorologist

  

2025年11月3日月曜日

気象学者でもあった著名な科学者-フランシス・ゴルトン

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雲形を考案したイギリスの薬剤師ルーク・ハワードや電磁気学者であったアメリカのジョゼフ・ヘンリーのように、19世紀までは気象学を専門としない気象学者が数多くいた。ここで述べるイギリスのフランシス・ゴルトン卿(Sir Francis Galton)の場合は、当初気象学の研究を行っていたが、その後、統計学と優生学の方に興味が移ったパターンだった。

現在では、ゴルトンは優生学の創始者として、あるいは統計学の専門家として有名である。後述するように、彼の優生学は一世を風靡したが、それは後年さまざまな問題を引き起こした。その影に隠れてしまったのか、気象学における彼の功績が顧みられることはあまりない。ここでは、ゴルトンの気象学に光を当てる。

フランシス・ゴルトンの写真

ゴルトンの人生

英国人の気象学者であるフランシス・ゴルトンは、18222月にバーミンガムで生まれて、19111月にロンドン郊外のサリーで亡くなった。ゴルトンはチャールズ・ダーウィンの 「半いとこ」であり、ダーウィンと同じ祖父(エラマス・ダーウィン)を持つが祖母は異なる。祖父は医師で詩人である。

ゴルトンは17冊の著書を含む300以上の出版物を出しており、中でも『天才の遺伝(Hereditary Genius)』は最も有名なものの一つである。ゴルトンは独創的で明晰な頭脳の持ち主で、彼が見るほとんどすべてのものに新しい光を当てた。ダーウィンを見てもわかるように、彼の家系は知性が高かったと言われている。彼はものごとを可視化(数値化)することによって、その状況や傾向を明らかにしようとした。それが彼の気象学にも現れている。

ゴルトンはいとこであるダーウィンの自然淘汰論(進化論)に影響を受けたのか、後に人間の遺伝的性質に興味を持った。彼は「優生学」という言葉を作り、彼の遺伝における研究のほとんどは、人間優生学を支援するために行われた。それが後年の学問としての優生学の発展につながった。彼が創始した優生学によって、彼の死後にホロコーストが行われ、日本を含む国々で優生保護法のような施策が行われた。これは彼一人の問題というよりは科学のあり方全体の問題でもあるかもしれない。

測れなかったものを測る

ゴルトンは幅広い好奇心を持っていたことは確かである。彼は祖父と同様に医師の道を目指したが、当時の手術のような荒療治は性格的に不向きであることを悟り、ケンブリッジ大学で数学を学んだ。父の死後に若くして莫大な遺産を手にしたこともあり、世界中を探検して回った。

その後、生活費を稼ぐ必要がなかった当時の資産階級の一部がそうであったように、彼は科学に没頭するようになった。彼はいろんなものを測定(数値化)することに強い興味を持った。それは測定器で客観的に測定できるものに限らなかった。それまで誰も思いつかなかった多くの事象を数値化しようとした。例えば彼は1884年に2人の人間がお互いにどの程度好意を抱いているかを測定する手段として「魅力測定器」というアイデアを思いついた。今でいうマッチングアプリのようなものだろうか。また、講演時の聴衆の熱狂度に現れる姿勢から「退屈指数」を考案した。さらに各都市の女性の容姿を分析して、どこに美人が多いかなども分析しようとした。これらには主観がかなり含まれた[5]

客観的な分析としては、ゴルトンは祈りの力について科学的な調査を行った。彼は「祈る人が祈らない人よりも頻繁に目的を達成するかどうか」を明らかにしようとした。1872年、彼は 「祈りの効能に関する統計的研究(Statistical Inquiries into the Efficacy of Prayer)」を発表した。これによって、祈りによって結果に測定可能な差は生じないことを明らかにした。

気象学での功績1―天気図の発展

ゴルトンは、気象学の進歩が遅れているのは、気象観測の結果をコンパクトな図にして俯瞰することが不足しているためと考えた。そのため彼は、総観規模の気流や天気を合理的に図上に表現することを研究した。彼はヨーロッパ内の各気象観測所の天候状況を一つの図で表せるような工夫を行い、186112月の毎日のヨーロッパの天気図を作成し、これを1863年に「メテオグラフィカ」として発行したさらにこれには、気圧の分布を13回碁盤目上の図にしたものが含まれた。これは平均気圧からの差を格子上にシンボルで示したものだった。


ゴルトンが作成したメテオグラフィカ(総観気象図)。18611211日のもの。山形の膨らみは風向(○は静穏)。四角内の模様は天候を示す。Galton, METEOROGRAPHICA, Macmillan, 1863より。なお、原本のコピーはGoogle booksから公開されている。

当時、アメリカでの暴風雨論争などを経て、嵐は低気圧域に吹き込む旋風(サイクロン)であることがわかってきていた(サイクロンの語源については「「サイクロン」という言葉について」を参照)。嵐は顕著な気象を伴い能動的であるため、現象として意識に上りやすい。しかし、嵐以外の気圧構造には人々の関心はあまり向かなかった。ゴルトンは気圧分布と風向から、嵐をもたらすサイクロンに対応して、逆に気圧が高い反サイクロン(anti-cyclone: 逆旋風)があることを初めて示した。これは日本では高気圧と訳されている。

1870年以後はゴルトンは気象学の仕事をやめて後述する優生学の研究に打ちこんだため、彼の優れた総観天気図の仕事は途絶した[2]

気象学での功績2―連続的な気象観測

ゴルトンはキュー観測所(Kew Observatory)で働きながら、気象の観測結果を連続して記録するための装置を考案した。それまで行われていた人間が1日に数回、定時で気象を観測して結果を記帳するやり方だと、その間に起こったことは記録されない。彼は感光紙を用いて、観測結果を自動で連続的に記録できるようにした。彼は7か所の気象観測地点の風向、風速、乾・湿球温度、気圧、降水量などの7要素の連続記録を、時間軸をそろえて同一の座標面上に精巧な銅版(リトグラフ)を用いて印刷した。そして、その印刷記録を「メテオグラム」と命名し、これはロンドン気象局から季刊気象報として1869年から12年間にわたって発行された。

一般に公表された定期的な気象資料としては、これはそれまで類をみないほど時間分解能が高いものだった。これは当時は知られていなかった前線の通過などによる、短時間での気象の急変を捉えていた。しかし、この観測結果を用いた詳しい分析は行われなかった。英国気象局の長官で気象学の大家であったネイピア・ショー卿は、後年に次のように述べている[2]

もし,彼等(気象学者たち)がこの時に最後まで正道を踏んで天気図と自記記録を併用しながら分析していたら,前線の学説を1919年でなくて, 1869年に発表できたことであろう。

この1919年は、ノルウェーの気象学者ヤコブ・ビヤクネスが前線を発見した年を指している(詳しくは「前線を伴った低気圧モデルの100周年」を参照)。

気象学での功績3―新聞での天気図の発行

英国気象局のフィッツロイは、1861年からロンドンで気象予報を開始した(フィッツロイと天気予報(2参照)。それは各地で観測した天候現況とその進行をそのまま時空間的に外挿して予測したものだった。ただしドイツの気象学者ドーフェによる悪天は気流の衝突によって起こるという考えを取り入れてはいた。しかし、それは定理とか法則のようなものではなく、「気象の進行方向において時間とともに同じ状況が起こるだろう」という漠然とした概念だった。政府の仕事としてあいまいな概念だけに基づいた気象予報を行うことは、当時似非科学が流行していたこともあり、科学の信用を損なうとして科学界から反発を招いた。

1865年にフィッツロイが自殺した後、フィッツロイが行った警報と気象予報の調査が行われることになり、その委員会の委員長をゴルトンが務めた。そしてその委員会で気象予報の廃止が決まった。当時の科学的状況では、仕事として気象予報に手を染めると言うことは、科学者にとって自分の科学者生命を絶つことに近かった。

しかし1875年に、ゴルトンはこの状況に一計を案じた。問題を引き起こし得る気象予報を行わず、前日の天気図を作成してそれを新聞に毎日掲載することにした。これならば過去の事実なので、誰も文句を言えない。天気図に慣れてくれば、一般の人でもそれを見て翌日(つまり今日)の天候がどうなるかを推測することはそれほど難しくない。それが当たるかどうかは別問題であるが、外れても自己責任だった。

この天気図は1863年に発行した天気図と異なり、現在のものとかなり似ていた。それには気圧の異なる地域の境界が点線で示され、風向は矢印で示され、風速に応じた矢羽根が付けられていた。また各地の気温(華氏)や沿岸海上の様子も説明されていた。

ゴルトンは187541日からロンドンのタイムズ紙に前日(331日)の天気図を掲載した。これは一般の人々へ、自分が住んでいる上空以外でどういう気象が起こっているのかという気象の啓蒙にもなったのかもしれない。新聞でのこの天気図は大人気となり、他の新聞社も一斉に掲載を始めた。それは今日でも多くの新聞で続いている。

ゴルトンが187541日に発行した天気図

統計学などでの功績

ゴルトンは多くの物事に興味を持っており、徐々に気象学からは手を引いた。彼はデータを分析するための統計理論とそのための手法を発展させた。

彼は、指紋は個人によって異なることや、そのアーチ、渦巻き、ループなどのパターンは生涯にわたって安定していることを初めて示した。そして犯罪現場に残った指紋を分析すれば、人物を特定するのに使えることを初めて実証した。この考えはすぐにロンドン警視庁(スコットランドヤード)に採用され、現代においても事件における指紋の照合に活かされている。

ゴルトンは、平均的な「群衆の知恵」を最初に認識した人と言われている。彼は家畜のある品評会に出席した。そこでは村人が牛の体重を当てるよう求められ、800人近くが参加した。ゴルトンは彼らの推測を見たところ、ほとんどすべての推測が間違っている一方で、それらの推測値の平均値はほぼ正しいことを発見した。

当時、統計学としてはベル曲線やガウス分布が知られていたが、それは天文学などにおいて観測の誤差を示すためのものだった。1835年にベルギーの統計学者アドルフ・ケトレは、この「誤差の法則」が多くの人間の身長や胸囲などにも当てはまることを発見し、初めて統計的に「平均的な人間(l'homme moyen)」像を示した。アドルフ・ケトレは気象学者でもある。

ゴルトンはこのガウス分布の適用を逆転させて、初めてばらつき自体の重要性を示した。そして、これが生物学的あるいは心理学的研究に新しい方向性をもたらした。1877年、彼は、ある親子の身体的特徴の間の関係を表すために、「回帰(regression)分析」という数値的手法を発表した。それが主に身体測定データの解析につながった。回帰分析とは、ある事柄と別の事柄(例えば子供の身長と両親の身長、あるいは個人の体重と身長)との関係という曖昧なものに、それを予測する方法を提供するものである。

1888年にはゴルトンはさらに、そのような曖昧な関係の「強さ」を測る手法を開発した。その手法は、雨量と作物の収穫量のように、関係するものが異なる種類であっても適用できるものである。彼はこのより一般的な手法を 相関関係と呼び、その程度を「相関係数」として数値としてを計算する最初の手段を提供した。

ゴルトンは以前の回帰分析の研究から相関係数を示す記号に「r」を使用し、彼はこの係数を-1.0から+1.0までの小数として表現する方法を導入した。これは現在でも使われている。彼はばらつきの尺度として四分位範囲を使った。しかし、これは弟子であるカール・ピアソンによって標準偏差に置き換えられた[1]。この考え方を利用したものは、今では単に「偏差値」と呼ばれて、学校においてテストの成績の分析などに欠かせないものとして利用されている。

それまでの科学は、決定論的な原因と結果を持つ法則に限定されていた。これは、複数の原因がしばしば雑然と混ざり合う生物学の世界などでは見つけにくい。ゴルトンのおかげで、科学は生物学などにおいて統計的手法を尊重するようになった。医学や薬学において施術や薬剤の効能や副作用に関する統計的手法は、現代の医療に欠かせないものである。

優生学の創設

従兄弟であるチャールズ・ダーウィンが1859年に書いた自然淘汰の理論である「種の起源」を読んだことが、ゴルトンを「まったく新しい知識の領域」に導き、彼の遺伝研究への道を開いたようである。ダーウィンは、農家がより良い系統を作るために家畜化した動植物の品種改良を例に挙げた。おそらく人間の進化も同じように導かれるだろうとゴルトンは結論づけた。

ダーウィンが自然淘汰を説明するために、主に生物の身体的特徴の進化について考えていたのに対し、ゴルトンは才能や美徳のような精神的属性にも同じ遺伝性の論理を適用しようと考えた。またゴルトンは、個人の身体的特徴を数値化すれば、出身地、居住地、職業、人種などを超えて、人間を比較できると考えた。彼は1884年のロンドンでの国際健康博覧会で「人体測定研究所」を設置した。彼はそこで、訪れた一般市民の身体的特徴や能力に関するデータを収集した。

ゴルトンは、人間の才能は「天性なのか育ちによるものなのか」をはっきりさせようとした。植物や動物に関するさまざまな遺伝に関する研究による特性の傾向を人間にも当てはめた。そして、人間を向上させる原理を発見したと考えた。これは持って生まれたものを重視する考えであり、選択的交配によって人類を 「改良」するという考えである。彼はギリシャ語で 「良い血統」を意味するユージェニックス(優生学)という言葉を作った。

1900年、グレゴール・メンデルによるエンドウ豆の遺伝に関する研究が再評価されるようになると、似たような考えである優生学の名声は一気に高まった。ちなみに、メンデルも気象学の研究を残している。ゴルトンによる優生学は、彼の地位やその科学的説得性によって多くの科学者が共有するところとなって発展した[4]。さらに彼の死後、優生学はそれを用いた政治へと広がっていった。その結果は、大勢の知るところである。

現在において、優生学に基づいたホロコーストや優生保護法などを断罪することはたやすい。しかし植物や家畜などについては、現在においても品種改良によっておいしいもの、成長が早いもの、病気に強いものなどの人間に都合の良いものが次々に生み出されている。また人間についても、出生前遺伝子検査と選択的妊娠中絶の結果、ヨーロッパではダウン症児の出生数が半減したと言われている[3]。さらに「胚選択」という遺伝子技術によって、両親の精子と卵子の中から最も優れた特徴を持つものが母親の子宮に移植される技術も研究されている[4]。これは将来のデザイナーベイビーへの道を開くかもしれない。これらはゴルトンが創設した優生学の発展形といえるのではなかろうか。

ゴルトンは良くも悪くも人類を変えた一人といえるのかもしれない。現在行われている遺伝子操作が人類にとって本当に良かったかどうかの歴史的判断には、まだまだ時間がかかると思われる。

(次は「別な科学で有名な気象学者-グレゴール・メンデル 」) 

参照文献

[1] ROGER THOMAS, Encyclopedia of Statistics in Behavioral Science, John Wiley & Sons, Ltd, Chichester, 2005, ISBN-13: 978-0-470-86080-9
[2]
 斎藤直輔、天気図の歴史、東京堂出版、1982
[3] Gunderman, Francis Galton pioneered scientific advances in many fields – but also founded the racist pseudoscience of eugenics, https://theconversation.com/francis-galton-pioneered-scientific-advances-in-many-fields-but-also-founded-the-racist-pseudoscience-of-eugenics-144465
[4] Jim Holt, 2005, MEASURE FOR MEASURE, https://www.lindahall.org/about/news/scientist-of-the-day/francis-galton/
[5] Dan Maier, 2011, Francis Galton: Measuring the immeasurable, Significance, The Royal Statistical Society, September 2011, 122-123