(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
当初、このタイトルを「女性初の予報官」にしようかとも考えていた。かつては気象事業は基本的に国の事業であり、予報は「官」の仕事だった。しかし、彼女は米国気象局には務めていない。後に軍で働いているため、広い意味では官かもしれないが、アカデミックな体制の下で教育を受けた研究者でもあり、気象学者というタイトルにした。
ここで出てくるアンネ・ルイザ・ベック(1896-1982)は、カリフォルニア生まれで、カリフォルニア大学優秀な成績で卒業した女性である。彼女が大学を卒業した頃は、ちょうどヴィルヘルム・ビヤクネスが気象学のベルゲン学派を組織した頃だった。ビヤクネスは前線という新しい概念を導入したベルゲン学派(ノルウェー学派)の気象学を世界に売り込むために、ベルゲンに留学生を受け入れていた。
アンネ・ルイザ・ベック(1896-1982)
彼女は、アメリカ・スカンジナビア財団の奨学金で1920年にノルウェーのベルゲンに留学し、ヴィルヘルム・ビヤクネスの下で気象学を、ヘラルド・ハンセンの下で海洋学を学んだ。彼女は熱心にベルゲン学派気象学を修得した。当時ベルゲンには、ヤコブ・ビヤクネス、ベルシェロン、ロスビー、サンドストレームなど若くて個性豊かな人々が揃っていた。後に中央気象台長となった藤原咲平も同時期にベルゲンに留学しており、その留学記には、アメリカから留学しているミス ベックという人がいたとだけ記されている[1]。そして彼女は、ヴィルヘルム・ビヤクネスが1921年に出版したの論文の手伝いも行った。
彼女は1921年6月に米国に帰国した。トランクには天気図と海図がぎっしり詰まっていたという。米国気象局は彼女にワシントンD.C.にある中枢でのポストを用意した。しかし、彼女はカリフォルニア出身であり、独身ではあったがバークレーには親兄弟などの家族がいた。ワシントンはあまりに遠く、彼女は気象局の申し出を辞退した。この時、ワシントンに就職しておれば、ベルゲン学派気象学をマスターしていた彼女は、予報官になったと思われる。
しかし、「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学 」に書いたように、必ずしも米国ではベルゲン学派気象学は受け入れられておらず、しかも、ヴィルヘルム・ビヤクネスが1921年に出版したの論文は米国で激しい論争を引き起こしていた。予報官になっていれば軋轢もあっただろう。彼女がワシントンに行かなかったのはその影響もあったかもしれない。
彼女はカリフォルニアへ戻って、カリフォルニア大学バークレー校の地理学科で、総観天気図におけるベルゲン学派気象学の極前線理論の応用をテーマに修士号を得た。これは、一般的な流体力学的考察が、ベルゲン学派の極域前線やそれに沿って伝播するサイクロン家族という概念に、どのようにつながったかを説明した。
そしてベルゲン学派の手法を知ってもらおうと、当時気象局が出版していたマンスリー・ウェザー・レビュー誌に、ベルゲン学派の手法で実際に低気圧を解析した論文を送った。しかし論文は編集者によって改変され、しかもページ数制限を理由に分量を削られて出版された[2]。これは米国気象局によるベルゲン学派手法に対する抵抗だったとされている。
彼女は大学を卒業後、しばらくはカリフォルニアのサンタ・ローザの高校で、その後はそこの短大で数学や天文学を教え、その後航空学校で気象学と航空理論の講師をしていたようだが、大戦が始まると陸軍航空隊の気象学の講師となった。その後の経歴はよくわかっていない。
少し後にベルゲンで一緒だったロスビーもアメリカでベルゲン学派気象学を定着させようとした。どちらも航空気象学の方へと進み、ともに第二次世界大戦の気象教育プログラムに従事した。しかし、両者の道が交わった形跡はない[2]。いずれにしても、彼らは米国気象局の文化を大きく変えたプロセスの第一歩だった。
「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(6)戦争時代 」で述べたように、米国気象局長官にライケルデルファーがなり、彼がロスビーをMITから長官補佐に抜擢して強引に改革を進めた結果、やっと米国気象局でベルゲン学派気象学は受け入れられた。
おそらく彼女は、ベルゲン学派の気象学をマスターした最初の女性だったと思われる。しかしながら、当時のアメリカでは予測手法に対する保守的な状況と男女の役割に対する期待の違いから、十分な活躍はできなかった。米国で気象学の博士号を初めて取った女性は、時代が下った1949年のジョアン・シンプソン女史であり、彼女はベックより27才年下だった[2]。
[1]藤原咲平、現象の奥がを見つめる人(1950)、天文と気象、Vol.16、No.8、7-11.
[2]James Rodger Fleming (2016)、Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology (MIT Press, 312 pp.)