4.2 インドへの赴任理由
ギルバート・ウォーカーは、イギリスから遠いアジアのインドの気象事業を率いる人物としてまったくありそうにない候補者だった。彼はケンブリッジ大学において非凡な数学者として認められおり、既に学術的に高い栄誉を獲得していた。しかも彼の専門は、気象とは全く関係のない数理物理学であり、主たる研究は電気力学の数学的理論だった。彼はトリニティ・カレッジの数学科講師というアカデミックな環境の中で安定した学究生活を送っていた。
もしウォーカーにトリニティ・カレッジでの生活に対する不満があったとすれば、それはおそらく現状から来る何かに挑戦する機会の不足であったろう。ウォーカーは、ケンブリッジではいかなる実験の訓練にも関わる機会がないため、応用数学者が研究テーマを見つけることの困難さについてしばしば語っていた。これが、ウォーカーを気象学に駆り立ててインドへ赴任させる動機の一つとなった [1]。
トリニティ・カレッジ(ケンブリッジ)
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ウォーカーは1903年にインドへ渡り、インド気象局長官のジョン・エリオットから引き継ぎを受けた後、彼は1904年にインド気象局の長官に任命された [6]。彼は1924年までそのポストに就いた。ケンブリッジでの学究的な生活から責任あるインド気象局の長官の仕事への大きな変化に対して、当初ウォーカーはそのエネルギーの大半を割いたと思われる。彼は1909年まで学術論文を出版していない。しかし、彼は行政者としても一流であったようである。彼の着任後、インド気象局はモンスーンの季節予報を含めてうまく回り始めた。
4.3 当時の季節予報
政府のインド気象局の評判は、豪雨と嵐の警報に関する日々の予報とモンスーンによる北インドの夏の雨量の季節予報にかかっていた。研究のための補助金の割り当ては、予報が当たるかどうかの評判が考慮された。前任者のジョージ・エリオットは行政事務に多くの時間を割く必要があったにも関わらず、モンスーン季節予報の研究のための助手を与えられていなかった。
当時の気象学では、日々の予報は地上天気図の気圧配置のパターンを見て行われていた。それには科学的な理論はほとんどなく、せいぜい過去の天気図パターンとの類似性や個人の経験と勘に頼ったものだった。天気予報の科学化を提唱して、ノルウェーの気象学者ヴィルヘルム・ビヤクネスが予報のためのプリミティブ方程式の原型を提唱したのが1904年だった(本書の「9-4-1 気象予測の科学化という目標」を参照)。しかし、それの現実の天気予報への適用は当時は全くの夢だった。なお、ウォーカーとヴィルヘルム・ビヤクネスは、どちらも1919年のパリでの国際気象会議に参加している。
日々の天気予報ともととなっていた気象学でさえそういう状態だった。一方で気候学はその地域の季節の定常かつ平均的な特徴を定義するのが精一杯で、年による季節の気候変動を対象にすることは全く不可能だった。その狭間でモンスーンは積雪量などの気象や太陽黒点との関係が議論され始めたばかりで、季節予報のために確立された理論は何もなく、当時の季節予報に信頼がおけなかったことは当然だった。とにかくエリオットは、後任に一流の科学者を選ぶとともに、当局と折衝して彼に科学知識を持った3人の助手を与えることに成功した [1]。
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4.4 季節予報のための世界気象に関する調査
高層気象観測と世界規模の大気の流れを決めている大気力学についての大きな進展により、現在では我々は気象をもたらす大気の流れの変動をおおむね予測することができる。ウォーカーは気象学に関する知識をほとんど持たなかったが、彼は研究を始めるとこの科学分野に季節予報のための理論や知見がほとんどないことを知った。彼はそれまでの知見が、この新しい分野ではほとんど使えないことを理解した。彼は「地球上の気象の関係は、理論的な考察からそれらを導こうと試みても無駄なほどに複雑である」と述べている [7]。
確立された理論から数学を駆使して季節予報を行える見込みがないとわかって、彼は物理学的な因果関係を追い求めるのではなく、関連する全ての気象記録を集めてそれらを統計学的に扱うことに決めた。もし気象要素の変動の中にモンスーンの変動と統計学的に有意な相関関係を見つけることができれば、因果関係がわからずともある程度のモンスーンの予報は可能である。これは当時としては最善の選択だった。エリオットはどちらかというと気象要素のパターンの類似などの主観的手法を使ったのに対し、ウォーカーは気象要素の相関関係という客観的な数学手法へと調査を変えた [1]。
モンスーンが影響する範囲は広い。何らかのモンスーンの予兆をつかもうとすれば、それは世界中の気象データ間の統計的な関係を考慮する必要があるということを意味した。しかも、予兆のための調査は空間の違いだけではなく、時間的な違いを考慮した相関関係も含めなければならなかった。スウェーデンの気象学者ヒルデブランドソンは、世界の68の観測地点の気圧データを調査し、1897年にシドニーとブエノスアイレスの間で気圧の変動が反対の傾向を持つことを示していた [8]。ロッキャーも1902年にインド洋付近とアルゼンチン間の気圧変動が反対の傾向を持つことを確認して、この気圧振動を分析するための基礎となる情報を提供していた [9]。
ウォーカーは、世界中で気候変数(特に降水、温度と気圧)の間の関係を調べる際に、相関関係と回帰式を使った。1908年という赴任してから早い時期に、彼は相関解析を実施して、インドのモンスーン雨量を予測するために他の地域の雨量や関連変数(例えばナイル川の洪水)との重回帰式を作成した。また、ウォーカーはインド内外の気象学上の現象について、前後2つの季節までの先行と遅延関係、つまり自己相関(ラグ相関)も計算した [10]。これらは、気象学において先駆的な取り組みであっただけでなく、後述するように統計学に新たな手法をも生み出した。
数年の研究の後、彼はインドの夏季の雨量を予測するための最良の因子として、5月末のヒマラヤ山脈の降雪量、5月のモーリシャスの気圧とザンジバルの雨量、4月と5月の南アメリカの気圧を選んだ [6]。そして彼はこの相関を用いたモンスーンの季節予報を「シーズナル・フォアシャドウイング(seasonal foreshadowing)」と呼んだ。フォアシャドウイングとは確率的なあいまいさを含んだ予報という意味だった [2]。
これは、約50年近く前にフィッツロイがイギリスで天気予報を開始した際に、科学的な理論に基づいた予測という意味を避けるために、天気予報に対して新たに「フォアキャスト(forecast)」という造語を充てたことをウォーカーが知っていたためかもしれない(本の「6-2-4 フィッツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報」参照)。フィッツロイは彼の予報手法の科学的根拠が弱いことを責められたが、ウォーカーの季節予報の手法は少なくとも数学的な根拠は明確だった。