2024年9月18日水曜日

ベンジャミン・フランクリンと気象学

フランクリンの気象学における業績は、本の3-6-2節で紹介しているが、ここで改めて彼の業績の概要を紹介する。

ベンジャミン・フランクリンは政治家でり、アメリカ独立宣言の起草者の一人で有名である。そのため、アメリカの100ドル札に彼の肖像画が描かれている。しかしながら、彼は自然科学の深い探求者であり、雷の研究でも知られている。彼は気象学全体にも深い興味を抱いており、その解明にも取り組んでいるが、ここでは彼の雷の研究を解説する。

なお彼の活動の大半はアメリカで行ったが、アメリカが独立したのは1776年であり、フランクリンが自然科学者として活動した時期の大半はアメリカがまだイギリスの植民地だった頃のことである。


フランクリンの肖像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:BenFranklinDuplessis.jpg

フランクリンの実験の前までは、雷は人々にとって驚異であり畏怖の対象だった。古代ギリシャでは、稲妻は神ゼウスが投げる槍であり、キリスト教では、雷は神による罰とも受け取られていた。

1746年から、フランクリンは電気を使った火花の一連の室内実験を行った。フランクリンは、それらの実験から尖った先端を持つ物質が電気火花の放出と誘引に効果的であることを発見した。そして、その電気状態を説明するのに「プラス」と「マイナス」という言葉を用いた。その放電の観察から、ライデン瓶に電気を充電して放電させる際に、接地していることの重要性を発見した。

彼は、先端が尖っている方が電気火花を誘引しやすいという室内実験での経験から、稲妻が電気と類似していると推測した。それに基づいて、雷雲がその地域を通過しているとき、高い丘や木々、尖塔、船のマスト、煙突などに落雷しやすいことに気づいた。それだけでなく、尖った金属の先端からの放電が、上空の雲からの電気の影響を減らして稲妻に打たれる可能性を減らすことと、その放電効果はその先端が接地されているときに最も高いことに気がついた。

              雷の稲妻放電(Photo by ARAさん)

 フランクリンは、イギリスの王立協会のメンバーで植物学者だったコリンソンに、その内容を手紙で送った。コリンソンは1751年にその内容を本として出版したため、フランクリンの実験は直ちにフランス語やドイツ語に翻訳されて、ヨーロッパ中に知られることとなった。1752年5月10日にあるフランス騎兵がフランクリンの本に従って、パリの近くのマルリー=ラ=ヴィルで地面から注意深く絶縁された高い鉄塔から火花を引き出すことに成功した。この実験から雷雲は帯電しており、稲妻は電気的な放電であることが証明された。

この実験は直ちに評判になり、直ちにヨーロッパ中の多くの人々によって確かめられた。当時は科学ブームの時代で、こういったさまざまな「科学の驚異」のデモンストレーションに人々は夢中になった。

フランクリンによる有名な凧を使った雷誘導の実験は、1752年6月か7月に行われた。その時、彼はマルリー=ラ=ヴィルでの実験を知らなかったが、彼がこの実験から指摘したことは次の点で画期的だった。

(a)雷雲が帯電しているかどうかを絶縁した高い棒で確かめることができ得る。
(b)接地した高い棒を使えば稲妻の衝撃から免れ得る。

またフランクリンは、雷雲の極性を測るのに大気中の電気の特性を摩擦で発生させた電気と比較した。その結果、彼は摩擦の電気と雷の電気は同じもので「落雷を起こす雲の電気は、負の状態が一般的だが、正の状態になることもある」ことを発見した。

以上の観察結果から、1762年にフランクリンは雷の被害を防ぐために避雷針を考案した。驚くべき事は、今でも避雷針の原理は、フランクリンが考案した仕様と本質的には同じままであることである。現在では建造物を雷から保護するのに世界中で避雷針が利用されている。

雷に関すること以外にも、フランクリンは嵐(低気圧)の進行スピードを、各地で同時の起こる月食を利用して初めて合理的に推測した。また、彼は竜巻を観察し、それが凪と酷暑の後に出現する点に注目した。そして熱によって希薄化された大気が上昇することによって地表気圧の低下を生み出し、大気が四方八方から内部へ流れ込んで回転しながら上昇して竜巻になることを指摘した。

1783年には、アイスランドのラキ火山などの噴火(「1783年のラキ火山噴火の大気への影響」参照)により、ヨーロッパの状況はグレート・ドライ・フォッグとも呼ばれた。フランクリンはこの年の夏の日射が異常に弱く、そして翌年の冬は厳冬となったことに気づいた。彼は大気中の塵による煙霧が日射を散乱して地上に届く熱が減ったために、翌年厳冬になったと推測した。そして、そういう煙霧が起こった際には、引き続いて起こる厳冬への対策を事前に講じることができる可能性があることを指摘した。

これらは、当時の気象学の水準からすると画期的な発見であり、彼が優れた非凡な観察眼と考察力を持っていたことがわかる。