2026年2月25日水曜日

第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)    

 戦争において気象情報、特に気象予報は、輸送や作戦に直接影響するため極めて重要な情報となる。第二次世界大戦のヨーロッパでは、正確な気象予報のために、広大な北大西洋にも気象観測網を展開する必要があった。連合国とドイツは、自軍の観測網の構築と相手の観測網の破壊のための戦闘を繰り広げた。第二次世界大戦で展開された気象情報の獲得を巡るこれらの熾烈な戦いについて、[1]を参考に簡単に記しておく。

1.気象観測の重要性

第二次世界大戦の前、デンマークはグリーンランドとアイスランドに、ノルウェーはスバールバル諸島とヤンマイエン島に気象観測者を配置していた。1939年に第二次世界大戦が始まり、1940年春にこの2国がドイツに征服されると、この北大西洋の重要な地域をカバーする気象報告は途絶えた。連合国もドイツも、相手の支配下にある地域の気象情報を獲得しようと躍起になった。北大西洋の気象観測は、観測船と気象偵察機によっても行われたが、陸上の定常観測点からの観測結果の方が信頼性が高い上に使いやすかった。つまりグリーンランド周辺の気象観測地点を巡って、北大西洋の気象戦争が始まろうとしていた。

第二次世界大戦勃発時の
アメリカの懸念は、アメリカが戦争のための物資動員体制が整う前、または戦争態勢に入る前にイギリスがドイツに屈服してしまうことだった。そうすればドイツ打倒のための欧州の強力な拠点が失われてしまう。それを避けるためには、イギリスがドイツに対抗できるように、まず航空機を大量にイギリスへと送る必要があった。

1941年3月に武器貸与法(レンドリース法)の成立で、アメリカからイギリスやソビエト連邦への大量の武器の輸送が始まった。イギリスへの最優先輸送は航空機だった。そのためには、アメリカ北東部からグリーンランドを経由してイギリスへ到達する安全な航空路を確立する必要があった。また、イギリスとソビエト連邦に向かう支援物資を積んだ輸送船団を安全に航行させるために、北大西洋航路の天候を予測する必要もあった。これらのために、北大西洋の気象観測が極めて重要となった。

2.グリーンランドの国際的位置け

16世紀以来、グリーンランドはデンマーク領だった。デンマークがナチスドイツに占領されると、その所属は微妙となった。1940年4月10日、ルーズベルト大統領はデンマーク公使ヘンリック・カウフマンを迎えた。デンマーク政府は既にナチスに協力しており、公使カウフマンは政府からグリーンランドをアメリカの保護領にすることに同意しないように命じられていた。しかし、公使は独断でモンロー・ドクトリンに基づいてアメリカがグリーンランドを保護領にするよう要請し、ルーズベルトとアメリカ国務省はグリーンランドをアメリカの保護領にすることに同意した。

これにはドイツ軍がグリーンランドに飛行場や港を建設することを阻止するだけでなく、アルミニウム精錬に不可欠な鉱石である氷晶石の産出地だったグリーンランドのイヴィグトゥット鉱山をドイツに渡さないための措置でもあった。しかし、外交上の理由からグリーンランドにアメリカ兵を置くわけにはいかず、アメリカは沿岸警備隊員を送り込んで、彼らは自主的に民間人となって、鉱山の警備員として雇用された。同時に鉱山防衛のため、アメリカは3インチ砲やライフル、弾薬を提供した。

グリーンランド南西部のイヴィグトゥット氷晶石鉱山、1940年
https://en.wikipedia.org/wiki/Greenland_in_World_War_II#/media/File:Cryolite_mine_ivgtut_greenland.jpg

1942年、陸軍航空隊のイェーツ中佐は、グリーンランド沿岸に気象観測所を設置するプロジェクトを指揮した。彼はカリフォルニア工科大学の気象学科を出ていた。これは広大なグリーンランドに潜在するドイツの気象観測所を探し出すとともに、連合国軍の観測を構築・維持するという困難なプロジェクトだった。このプロジェクトの下でドイツ軍とのいくつかの戦いが起こった。 

なおイェーツ中佐は、1942年にソビエト連邦へ行き、ソビエト連邦までの輸送航空路の設定と気象情報の交換を調整している。 彼は帰りは中国北部の日本軍占領地上空を飛んでアメリカに戻った。ソビエト連邦との気象情報の交換は、同じ地域から気象観測結果を暗号で送っていたドイツ軍の暗号解読にも貢献した[1]。

イェーツ中佐は、後に大佐に昇進して気象に大きな影響を受けるノルマンディ上陸作戦において、総司令官であるアイゼンハワーに気象情報を提供して補佐するという重要な役目も担うことになる。

3.グリーンランドでの気象戦1

ドイツ軍の方もグリーンランド東海岸沿いで気象を確実に掌握しようと狙いを定めていた。1940年半ば、ドイツ海軍は1941年9月、改造トロール船の気象観測船「ザクセン」を派遣し、同船はアイスランドの北東約600 kmにあるヤンマイエン島沖で3か月間、バルーンを使った高層気象観測を含む毎日の気象データを送信した。さらに翌年2月には部下を陸上へ派遣し、第2の観測点を開設した。

さらに同船は、1941年8月にグリーンランド東海岸のシャノン島の南のハンザ湾に進入した。船長であったリッター中尉は、気象観測船「ザクセン」が湾内で凍りつくと、すぐに半数の隊員をシャノン島に上陸させて小屋を建てさせた。氷上にケーブルを敷設して、船と小屋との間の電話回線と電気を確保した。船体の周囲には雪を積んで上空から見ると海氷の塊に見えるように偽装した。そして9月下旬には気象データの送信を開始した。

12月にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、保護領になっていたグリーンランドも戦争に参加することになった。アメリカはグリーンランドのインフラを大幅に拡張しただけでなく、ニュース、食料、人道支援、娯楽を提供した。連合国軍はグリーンランドのエスキモーネスに、イヌイットやデンマーク人などからなる15名の「スレッジパトロール」を設立した。彼らの任務はドイツ軍の気象観測点を破壊することと自ら気象観測を行うことだった。北極圏での犬ぞりの経験が豊富なデンマーク人、イブ・ポールセンとマリウス・イェンセンがこのパトロール隊を率いた。ただし彼らの武器は猟銃だけだった。

1943年3月11日にこのスレッジパトロール隊はサビーネ島北東岸のハンザ湾にある猟師小屋を利用した気象観測所を発見した。すると同時に2人のドイツ人が小屋から逃走した。パトロール隊は後方に大規模なドイツ軍が控えている可能性を恐れて、いったんエスキモーネスへ戻った。

シャノン島のドイツ軍リッター中尉は、逃走した二人からパトロール隊の襲撃を聞くと、直ちに襲撃隊を率いてこのパトロール隊の捜索を開始した。一方で、イブ・ポールセン率いるパトロール隊もドイツ軍の居場所を突き止めるため、犬ぞりで北上した。ドイツ軍の襲撃隊はパトロール隊と遭遇した。優れた武器を持つ優勢なドイツ軍は攻撃を一瞬ためらい、降伏を求めている間にパトロール隊は逃走した。3月23日にドイツ軍の襲撃隊はエスキモーネスに到達し、同基地を焼き払ったため、パトロール隊はさらに約300 km南のエラ島の観測所まで退却した。

 グリーンランド付近の地図

パトロール隊の隊長イェンセンともう一人は、ドイツ軍の拠点を突き止めようと犬ぞりで再度北上した。しかしドイツ軍の襲撃隊と再び遭遇して二人は捕虜となった。ドイツ軍のリッター中尉はイェンセンの犬ぞりについての豊富な知識を利用しようと考えた。

中尉は新たな観測地点を探そうと、4月に探検隊を組織してイェンセンを連れて出発した。ところが温厚なリッター中尉は、地形もよくわからないままイェンセンの意に沿って動いたようである。5月初めにドイツ軍の探検隊は連合国軍の拠点があるスコレスビズンド(現イットコルトールミート)に到達し、そこでリッター中尉たちは逆に捕虜となってしまった。

捕虜が観測点の位置を自白したためか、1943年5月25日にアメリカ軍の長距離爆撃機がシャノン島の気象観測船「ザクセン」と陸上の気象観測所を爆撃した。ドイツ軍の観測隊員たちは丘の上の予備キャンプへ逃げ込み、この状況をトロムソへ無線連絡した。6月6日に隊員の半数はドルニエ26飛行艇で救出された。残りの隊員は気象観測船「ザクセン」を沈没させて気象観測所を破壊した後、6月17日に飛行艇によって救出された。

4.グリーンランドでの気象戦2

1943年8月下旬、トロンハイムを飛び立った4発のドイツのFW-200長距離爆撃機は、再度気象観測を再開するためシャノン島付近を偵察しようと飛来した。ところがスコレスビズンド上空を経由したため、その湾内で観測を行っていたアメリカ沿岸警備隊のカッター「ノースランド」から発砲を受けた。しかし爆撃機は被害を受けず、シャノン島付近を偵察して基地に帰還した。

フォッケウルフ FW200長距離爆撃機
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Bundesarchiv_Bild_146-1978-043-02%2C_Focke-Wulf_Fw_200_C_Condor.jpg


8月末にトロール船を改造したドイツの気象観測船「コブルグ」は、8人の新しい気象隊員をシャノン島に運ぶために、ザッハー中尉を始めとする18人の乗組員とともに北極圏に到達した。しかし9月11日に同船は氷に閉じ込められた。乗組員が氷を爆破して脱出できるようにするために、物資と氷を破壊するための爆薬を積んだFW-200爆撃機が派遣された。1回目は「コブルグ」を発見することができなかったが、2回目の9月18日に「コブルグ」に爆薬を投下することに成功した。その結果船は氷から脱出し、シャノン島に向かってさらに数km進んだ。

その後、何度か氷結と砕氷を繰り返したが、シャノン島北端でとうとう船は氷のために身動きがとれなくなくなった。乗組員は船から3 km離れた島に資材を運んでキャンプを設置したが、さらに海岸近くに雪洞を掘って、そこで気象観測を行った。

11月初旬、気象観測隊を救出するため、巨大な6発のブローム・ウント・フォスBV222飛行艇が何度か派遣されたが、悪天候などのため気象観測船「コブルグ」を発見できなかった。11月18日には氷の圧力で「コブルグ」の船体が破損した。船体は30度の傾斜をつけ船尾が水没した。船長と6人の乗組員だけが船に留まり、他の乗組員と気象隊員は、キャンプ地に移って掘った雪洞で気象観測を続けた。

ブローム・ウント・フォス BV222飛行艇
https://ja.wikipedia.org/wiki/BV_222_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bundesarchiv_Bild_146-1978-061-09,_Gro%C3%9Fflugboot_BV_222_%22Wiking%22.jpg


1944年3月下旬になると、雪が緩んで雪洞が危険になった。隊員たちは、近くの岩場に小さな木造の小屋を建てて、そこに観測所を移した。イェンセンが率いる連合国軍のスレッジパトロール隊は、グリーンランド沿岸から流れるドイツの気象無線を知って、気象観測所に対する襲撃行動を開始した。ところが1944年4月22日に
スレッジパトロール隊がドイツ軍の観測所に近づいたとき、逆にザッハー中尉率いるドイツ軍から奇襲を受けた。この時、ザッハー中尉はイェンセンに銃撃されて戦死したが、優勢なドイツ軍に襲われたパトロール隊は逃走した。

しかし、グリーンランドでは、じわじわと連合国軍の圧力が高まっていたようである。1944年6月3日、ユンカース Ju290が南フランスを飛び立ち、ノルウェーのトロンハイム経由で、シャノン島付近で気象観測船「コブルグ」の乗組員と気象隊員を救出した。

その数日後の1944年6月6日、嵐が小康状態になった間隙を突いて
連合国軍はノルマンディ上陸作戦を決行した。ドイツ軍は、連合国軍が嵐の中で風に弱いパラシュート降下や高波に脆弱な上陸用舟艇を用いた上陸作戦を決行するはずがないと思っていた。ノルマンディ海岸を防衛していたロンメル司令官もこの嵐を利用してベルリンへ戻っていた。

ノルマンディ上陸作戦はドイツ軍にとって奇襲を受ける形となった。上陸作戦の成否は、連合国軍とドイツ軍の気象予報の差が明暗を分けた面がある。しかし、このグリーンランドでの戦いを見ると、ドイツ軍はノルマンディ上陸作戦の直前まで北大西洋の気象データの一部を掴んでいたのかもしれない。

(次は、「第二次世界大戦における気象戦(2)暗号書の争奪戦」)

参照文献

[1] John Ross, THE FORECAST FOR D-DAY, LYONS PRESS, 2014.

2026年2月19日木曜日

日本からのウィーン中央気象台への支援

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

これは日本気象学史の中では雑学に類するものかもしれない。

第一次世界大戦後、ドイツ側で戦ったオーストリア=ハンガリー帝国は、ドイツと同様に莫大な賠償金などにより経済が混乱し、記録的なインフレによって窮乏した。気象学において由緒あるウィーン中央気象台も同様だった。同気象台では観測どころか職員の衣食にも窮した。本書の8-7で述べたように、ウィーンでは有名な気象学者であったマルグレスが年金で暮らしていたが、戦後はその年金ではコーヒー1杯さえも飲めなくなって、1920年に栄養失調で亡くなった。同じく世界的な気候学者であったユリウス・ハンも翌年に窮乏の中で亡くなっている。

その窮状を知った日本の中央気象台は、1921年頃に大日本気象学会*を通して全国の測候仲間に義援金を募り、それは600円に達した。当時の600円が今日どの程度の価値があるかはわからない。そしてそれを救援金として送ってウィーン中央気象台を支援しようとした。

ところが、当時は今日のように国際送金など容易に出来る時代ではなかった。日本で集めた義援金をどうやってウィーンに届けるかが問題となったが、手段がなく途方に暮れていた。

当時中央気象台には、長野県諏訪出身で後の中央気象台長となった藤原咲平がいた。彼は陸軍の永田鉄山と竹馬の友だった。たまたま永田鉄山が藤原咲平を訪ねてきた際に、中央気象台にいた岡田武松は永田鉄山が近々ウィーンへ視察へ行くという話を耳にした。岡田は永田鉄山に頼んで、行李に詰めた多くの見舞い品とともに義援金をウィーン中央気象台へ届けてもらったという[1]。

ウィーン中央気象台はこの支援に相当に感激したようである。高名な気象学者で、後にウィーン中央気象台長になったエクスナーは、副台長との連名で大日本気象学会頭であった中村精男宛に感謝状を出している。岡田武松は後に永田鉄山から、ウィーンでは気象台の方々が非常に喜んで歓待してくれたが彼らは誠に気の毒であった、という話を聞いている。また、岡田自身も後にウィーンへ行った際に、エクスナーから感謝の言葉を直接聞いている。

永田鉄山は陸軍軍務局長だった時にいわゆる相沢事件で暗殺された。彼は陸軍きっての秀才であり、企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と語ったと言われている。その陸軍の永田鉄山がウィーン中央気象台の支援に一役買っていたというのは意外だったので、一言ここに残しておきたい。

大日本気象学会は現在の日本気象学会の前身の組織である。ただ当時は学術的な活動だけでなく、全国の気象技術者(その多くは地方の測候所職員)を結束させる面もあったようである。

(つぎは「第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い 」) 

参照文献 

[1]岡田武松、続測候瑣談、岩波書店、1937.