2026年2月19日木曜日

ウィーン中央気象台への支援

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

これは日本気象学史の中では雑学に類するものかもしれない。

第一次世界大戦後、ドイツ側で戦ったオーストリア=ハンガリー帝国は、ドイツと同様に莫大な賠償金などにより経済が混乱し、記録的なインフレによって窮乏した。気象学において由緒あるウィーン中央気象台も同様だった。同気象台では観測どころか職員の衣食にも窮した。本書の8-7で述べたように、ウィーンでは有名な気象学者であったマルグレスが年金で暮らしていたが、戦後はその年金ではコーヒー1杯さえも飲めなくなって、1920年に栄養失調で亡くなった。同じく世界的な気候学者であったユリウス・ハンも翌年に窮乏の中で亡くなっている。

その窮状を知った日本の中央気象台は、1921年頃に大日本気象学会*を通して全国の測候仲間に義援金を募り、それは600円に達した。当時の600円が今日どの程度の価値があるかはわからない。そしてそれを救援金として送ってウィーン中央気象台を支援しようとした。

ところが、当時は今日のように国際送金など容易に出来る時代ではなかった。日本で集めた義援金をどうやってウィーンに届けるかが問題となったが、手段がなく途方に暮れていた。

当時中央気象台には、長野県諏訪出身で後の中央気象台長となった藤原咲平がいた。彼は陸軍の永田鉄山と竹馬の友だった。たまたま永田鉄山が藤原咲平を訪ねてきた際に、中央気象台にいた岡田武松は永田鉄山が近々ウィーンへ視察へ行くという話を耳にした。岡田は永田鉄山に頼んで、行李に詰めた多くの見舞い品とともに義援金をウィーン中央気象台へ届けてもらったという[1]。

ウィーン中央気象台はこの支援に相当に感激したようである。高名な気象学者で、後にウィーン中央気象台長になったエクスナーは、副台長との連名で大日本気象学会頭であった中村精男宛に感謝状を出している。岡田武松は後に永田鉄山から、ウィーンでは気象台の方々が非常に喜んで歓待してくれたが彼らは誠に気の毒であった、という話を聞いている。また、岡田自身も後にウィーンへ行った際に、エクスナーから感謝の言葉を直接聞いている。

永田鉄山は陸軍軍務局長だった時にいわゆる相沢事件で暗殺された。彼は陸軍きっての秀才であり、企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と語ったと言われている。その陸軍の永田鉄山がウィーン中央気象台の支援に一役買っていたというのは意外だったので、一言ここに残しておきたい。

大日本気象学会は現在の日本気象学会の前身の組織である。ただ当時は学術的な活動だけでなく、全国の気象技術者(その多くは地方の測候所職員)を結束させる面もあったようである。

参照文献 

[1]岡田武松、続測候瑣談、岩波書店、1937.