2019年1月2日水曜日

ケッペンについて1

 本書において、ケッペンは気候学と低気圧の研究の所に分けて出てくるうえに、他の気象学者との関係もあるので、ここでまとめておく。
 ウラジミール・ケッペン(Wladimir Peter Köppen, 1846-1940)は、よく地図帳などで紹介されているケッペンの気候図で有名である。しかし、本書の9-2-4「低気圧の上部構造の推定」で紹介したように、彼は気象学者でもある。

ケッペン

 ケッペンの祖父はドイツ人であり、ロシア皇帝の侍医としてロシアへやってきた。ケッペンはサンクトペテルブルグで生まれ、ドイツのライプチッヒやハイデルベルグで動物学と植物学を学んだ際に気温と植物成長との関係に興味を持った植物学者でもある。
 これが気候図を作るきっかけとなったようであるが、気象学は独学だったようである。彼はサンクトペテルブルグにあるロシア中央気象台で台長だったハインリッヒ・ウィルド(Heinrich Wild, 1833-1902)の下で1871年から助手を務めた。

 一方ドイツでは、1975年にハンブルグにドイツ海洋気象台(Deutsche Seewarte)が設立されて北ドイツ連邦海洋気象台の仕事を引き継いだ。そして、その台長に11-2「第1回国際極観測年(1882~1883年)」で述べたように、国際極観測年の委員長を務めた科学者ゲオルグ・ノイマイヤー(Georg Neumayer, 1826-1909)が任命された。彼は1873年のウィーンでの第1回国際気象会議に出席した際に、同じ会議にロシアから出席していたケッペンと知り合いになった。
ノイマイヤー

 ドイツ海洋気象台ができた当時、ドイツではまだ18世紀前半のドイツ気象学の権威ドーフェ(Heinrich Wilhelm Dove)の影響で総観天気図を使っていなかった。ノイマイヤーはドイツへの総観気象学の導入のため1875年にケッペンをハンブルグのドイツ海洋気象台に招聘し、同年からドイツ海洋気象台では暴風警報の発表を始めた。

 ケッペンは1879年にはそこで新しくできた気象調査課の課長となり、1919年に退職するまで気象や低気圧の研究を行った。その間、1882年にドイツ海洋気象台にいたケッペンとドイツの気象学者メラー(Max Moller, 1854-1936)は、8-2-4「低気圧の上部構造の推定」で述べたように、低気圧内での温度分布と気圧分布を初めて推定して、低気圧の熱的構造を明らかにした。

(次は「ケッペンについて2」)

2018年12月30日日曜日

ロバート・フックと気象観測

 気象は一か所で観測してもわかることは限られている。広域的な状況を把握するためには、気象観測網が必要となる。しかし、それは各地でただ観測すれば良いというものではない。統一された基準や時刻や手法、そして後に分析しやすいような記録様式などの統一が必要であり、そのためには観測のためのきちんとした指針が必要である。 上記のどれかが欠けても信頼性のある観測結果とはならない。それは現在でも同じである。

 学会が大規模な気象観測網を構築するようになったことは、「学会と気象観測」のところで述べた。イギリスの王立協会で行っていた気象観測網の結果を記録するということを最初に唱えたのは王立協会のウィルキンス(John Wilkins)だが[1]、本の3-3-3「イギリスの王立協会とフック」で述べたように、ロバート・フック(Robert Hooke)が1663年に気象観測網での具体的な観測様式や計画を「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」として作成した。フックとは、ばねの弾性の法則である「フックの法則」として有名なあのフックのことである。本の4-3「温度計の発達とその目盛りの変遷」で述べたように、フックは温度計の測定基準(calibrating thermometers to obtain consistent values)を確立しようともした。 そういう意味では、フックは組織的な気象観測網の意義を理解して確立しようとした一人と言える。

「気象誌の作成方法」に記載された様式。Sprat, T (1702) The history of the Royal Society of London, for the iproving of natural knwoledge, fourth edition, London


 


        






 本の4「気象測定器などの発展」で触れたように、フックはほとんどあらゆる気象測定器の改良にも尽力している。これらも考慮すると、フックによる気象観測の発展への貢献には、歴史的に欠くべからざるものがある。

 ところが、根本順吉氏が指摘しておられるように、気象学史の本にフックの業績について詳しく触れたものは少ない。この理由としてやはり同氏による指摘のように、気象学は応用物理学の一部門としてしか見られず、気象学が独自に発展した面が軽視されている[2]からなのかもしれない。

(次は「ケッペンについて1」)

参照文献

 [1]根本順吉 (1964) 気象学史物語XXV気象観測事始(1), 気象, No.8, 1
 [2]根本順吉 (1964) 気象学史物語XXVI気象観測事始(2), 気象, No.8, 2

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2018年12月28日金曜日

ムンクの「叫び」とクラカタウ火山

 火山の大規模噴火は気候変動と関係する。それは大量の二酸化硫黄ガスが成層圏へ注入され、そこでエーロゾル粒子となって滞在して日射を反射するからである。また、対流圏でも長期間対流することがあれば、当然反射が起こって日射は地面まで到達する量が減る。これらが長期かすれば寒冷化が起こる。1991年のフィリピンのピナトゥボ火山の噴火による冷夏を覚えておられる方も多かろう。本の3-6-2「ベンジャミン・フランクリン」で述べたように、1783年のグレート・ドライ・フォッグの際に、このことに初めて気付いたのはフランクリン(Benjamin Franklin)であった。

  もし成層圏にエーロゾルが大量に滞在すると、通常はクリーンな成層圏では起こらない散乱(ミー散乱)が起こって、赤色の日射の散乱が増える。そして、夕焼けや朝焼けの色が赤っぽく変わり、それが日没後もしばらく続く。ムンク(Edvard Munch)の「叫び(The Scream)」は有名な絵であるが、その背景はどぎつい赤い色の雲がうねっている。このムンクの「叫び」は1893年に書かれた(それ以降に書かれた版もある。ただし後で絵に手を入れることもあり、ムンクの日付はあまり正確でないとされている)。
 
ムンクの「叫び」

  1883年8月にインドネシアのクラカタウ火山(Mt. Krakatoa)が大噴火した。これによって成層圏に注入されたエーロゾルは世界中に広がった。その後、ヨーロッパでは異常に赤い夕焼けが見られたことが知られている。イギリスの画家ウィリアム・アシュクロフト(William Ascroft)が描いたその夕景のスケッチが王立協会の出版物に残されている。
1888年に出版されたアッシュクロフトが描いた夕景

 テキサス大学のオルソン(Donald Olson)らは、2004年に「叫び」の背景のどぎつい赤い色の雲はクラカタウ火山の噴火による空の色の記憶をもとに描かれているのではないかと主張した(絵が描かれたのはクラカタウ噴火の10年後である)[1]。

 しかし、一方でノルウェーの気象研究者はフィッケ(Svein M. Fikke)らは、2017年にムンクが描いた雲は通常の対流圏の雲ではなく、クラカタウ火山の噴火とは関係のない高緯度成層圏に現れる真珠母雲(nacreous clouds or mother-of-pearl clouds)という雲ではないかと主張している[2]。彼らは、できる限り科学的な根拠に基づいて議論しているが、当然のことながら最終的な結論はムンクしか知らない。
真珠母雲


 本の4-9「雲形の定義」で、イギリスの実業家ルーク・ハワード(Luke Howard)が雲形を定義して以来(このブログ「雲形の発見 ルーク・ハワード」も参照)、ターナー(Joseph Mallord William Turner)やコンスタブル(John Constable)などのロマン派の画家に影響を与えたことを述べた。気象による風景の変化は、意識的か無意識的かに関わらず、いろいろな芸術家たちに影響を与えているのかもしれない。

 (次は「ロバート・フックと気象観測」)

参照文献

 [1]Olson et al. (2004) When the Sky Ran Red: The Story Behind the "Scream", Sky & Telescope,29-35.
[2]Fikke et al. (2017) Screaming clouds, Whether, 72, 5,115-121.

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2018年12月27日木曜日

インターネットの発展と文献

 インターネットの普及は過去の資料へのアクセスを劇的に改善している。古い文献に関して、蔵書を確認して図書館へ出かけなくても、デジタル化されてインターネット上で公開されているものがある。例えばイギリスの王立協会が1665年から出している学会誌「哲学紀要(The Philosophical Transactions of the Royal Society)」は大半がデジタル化されオンラインで公開されている(https://royalsocietypublishing.org/journal/rsta)。1735年のハドレーによる有名な大気循環の論文なども、机上のPCから読むことができる。
1735年のハドレーの論文
 また、学会誌だけでなくロバート・フック「顕微鏡図譜(Micrographia)」、ガスパール・ショット「珍奇学(Technica curiosa, sive mirabilia artis)」など、昔の貴重な書籍もデジタル化してインターネット上で公開されている。「気象学と気象予報の発達史」の中でも、図4-1~4-3、図4-11などそれらからいくつかの図を掲載させていただいた。

 欧米での過去文書の扱いの重視には驚かされる。昔から公文書館のようなものがきちんと整備されていることもあるが、古い大学の図書館などでも歴史文書のデジタル化が積極的に行われ、公開されているものも多い。そういったデジタル化にはGoogleなどの大企業もボランティアで貢献しているようである。この本はそういったデジタル化されて公開されている古い文献の恩恵を受けている。

 文献の知識を集約することによって新たな知識が生まれることもある。古い文献のインターネットでの公開が、今後もっと進むことを願っている。

(次は「ムンクの「叫び」とクラカタウ火山」)


2018年12月24日月曜日

嵐の構造についての発見

 6-1-5「嵐の構造についての発見」のところで書いたように、1821年にアメリカ東海岸をハリケーンが襲い、大きな被害が出た。これは後にグレート・セプテンバー・ゲール、またはノーフォーク・アンド・ロングアイランド・ハリケーンと呼ばれることとなり、これが気象学が発達するきっかけの一つとなった。
グレート・セプテンバー・ゲールの推定進路

 アメリカのコネチカット州ミドルタウンの近くで生まれたウィリアム・レッドフィールド(William Redfield, 1789 -1857)は、幼少期から貧しく初等教育しか受けられなかったが、独学で勉強しながら1821年当時船の機関士をしていた(後に船舶運航会社を興した)。彼はグレート・セプテンバー・ゲールの風による痕跡として、互いに100km以上離れた場所での倒木の方向を観察し、その方向に規則性があることを発見した。
 彼は研究者ではなかったためこの観察結果を発表する機会はなかったが、10年後の1831年に、彼はたまたまエール大学教授のデニソン・オルムステッド教授と同じ船に乗り合わせて、グレート・セプテンバー・ゲールの話をした。オルムステッド教授はレッドフィールドからその嵐に関する注意深い観察結果を聞き、それを論文として発表することを勧めた。レッドフィールドが1831年に発表した論文がハリケーンが回転する組織的な風系を持っていることの初めての論文となった。
ウィリアム・レッドフィールド
 このブログの「ペリーとレッドフィールド」のところで述べたように、これがきっかけで嵐の構造を研究して船舶の航行の安全を図ろうとする研究が広く始まった。研究熱心な実業家であったレッドフィールドがこの嵐の解明のためのきっかけを作ったことになる。

 なお、彼は後に古生物学の専門家にもなり、1848 年に現在サイエンス誌を発行しているアメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science; AAAS)の初代理事長にもなった。

(次は「インターネットの発展と文献」)