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2019年3月11日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(12)成層圏発見の意義

当時上空に行けば行くほど気温が下がることは、物理理論と高度10 km程度までの実際の観測から揺るぎない性質と考えられ、それを阻むようなメカニズムがあるとは考えられなかった。そういう中で、気温の低下が止まる成層圏の発見は、それまでの科学常識を打ち砕く意外な発見だった。イギリスの気象局長官で気象学の権威だったショー(Sir Napier Shaw)は、成層圏の発見を「気象学の歴史上最も驚くべき発見」と述べた(Shaw, 1926)。また、大気物理学者のグーディ(Richard Goody)は「テスラン・ド・ボールがきわめて難しい誤差を持つ観測から重大な発見を可能にした注意力は、その慎重かつ頻繁な測定によって、この観測を気象学の歴史の中で最もすばらしいものの一つにした。」と述べている(Goody, 1954)。

エクマン

しかしこの発見の与えた影響は気象学に止まらなかった。この地球上に特性の異なる同心円状の層があるという考え方は、気象学以外の分野にも広がっていった。スウェーデンの海洋学者エクマン(Vagn Ekman)は海洋の層状構造を発見し、クロアチアの気象学者モホロビチッチ(Andrija Mohorovičić)は、地殻の層状構造の存在を明確にした。これは「モホロビチッチ不連続面」と呼ばれている。

モホロビチッチ
モホロビチッチ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Andria_Mohorovicic.gif

さらに大気や海洋の層はその不連続面に沿って動くことから、ウェゲナー(Alfred Wegener)は大陸の地殻も長年かかって動くと考えて、1912年に「大陸移動説(continental drift theory)」を提唱した。しかしながら、当時はこの説は認知されなかった。本の11-5-2「IGYと南極観測」に書いたように、1950年代のIGYでの海底の観測などから1960年代にプレートテクトニクス理論が構築されてくると、ウェゲナーの大陸移動説が見直される結果となった。大陸移動説は、現在では地震を引き起こす原因の一つとして広く知られている。そういう意味では、成層圏の発見は気象学だけでなく、地球科学における発想の大きな転換点ともなった。

「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」はこれで終わる。19世紀において高層大気は地球の辺境の一つではあったが、そのおおまかな構造はそれまでの知識から明らかと考えられていた。しかし、自然は往々にしてそれまでの人間の常識を覆すことがある。高層に温度が高くなる層があるという成層圏の発見はそういったものの一つである。こういったことは「19世紀末の知識が不十分だったから起こっただけ」とは言い切れない。現代においても、自然に対する人間の知識は限られており、これまでの常識とは異なることが起こり得る。このブログの「地球環境の長期監視の重要性」で述べたオゾンホールの発見もその一つである。成層圏の発見はそういう意味でも、人間の自然に対する姿勢を問う教訓の一つとなるのではなかろうか。

(このシリーズおわり。次はウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃

参照文献

Goody, R. M., 1954: The physics of the stratosphere. Cambridge, University Press, 187 pp.
Shaw-1926-Manual of meteorology, Vol. I. Cambridge, University Press, 343 pp.

2019年3月6日水曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(10) 成層圏存在の認知

テスラン・ド・ボールとアスマンの発表によって、上空で気温の下降が止まることが研究者たちに明確に意識され始めた。テスラン・ド・ボールとそれを支持するアスマンの結果は、1902年5月20日のベルリンでの第3回「科学航空国際委員会(the International Committee for Scientific Aeronautics)」の会合で発表された(Rotch, 1902)。この会合にはドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、イタリア、スペイン、イギリスから約100名の航空学の専門家も参加していた。

この観測結果は驚きを持って急速に科学界に広がった。テスラン・ド・ボールの報告は、アメリカ気象局の気象学者アッベ(Cleveland Abbe)によって英語に翻訳されたものが同年のMonthly Weather Review誌に、オーストリアの気象学者ハン(Julius von Hann)によってドイツ語に翻訳されたものがMeteorologische Zeitschrift誌に直ちに発表された。同誌にはアスマンの報告も掲載された(Hoinka, 1997)。

おそらく、テスラン・ド・ボールの報告がアスマンの発表よりわずかに早かったことと、アスマンがテスラン・ド・ボールの結果を自分の結果の支持に使ったことから、成層圏の発見をテスラン・ド・ボールの功績に帰している著作物が多いようである。しかし、テスラン・ド・ボールとアスマンの二人の功績と記しているもの少なくなく(Hoinka, 1997)、国の威信をかけた思惑もあってか成層圏の発見者に関する記述は統一されていないようである。

成層圏の発見は、突然起こったことではない。当時有人や無人の気球観測が各地で行われて、その結果気球の構造や搭載測定器の改善が次々に行われることによって、困難な高層気象観測が安定して可能になっていった。当時の高層気象観測の問題として、測定器の安定した回収(発見は住民に依存した)、日射や放射の気温観測への影響、下層空気の持ち上げ、測定器感部の換気(応答の遅延)、記録器の凍結、着地状況によっての測定器や記録の破損などがあり、安定した正確な観測は容易ではなかった。

安定した観測を阻む上記のような要因があったため、高層での等温層はたびたび観測されていたものの、当初それらの結果は観測の誤りと考えられた。高層での等温層の発見を主張するためには、高層気象観測での誤観測を除いた安定した観測結果という質だけでなく、量によってその発見を確実に示す必要があった。

そういう面から見ると、テスラン・ド・ボールには最初の発表者というだけでなく、236回という注意深い多数の観測頻度にも発見の優位性があったと思われる。ただ彼の1902年の発表は、明瞭ではあるが文章による簡単な報告だけで、今日から見るときちんとデータを記載した3日後のアスマンの発表の方が説得力があるように思われる。テスラン・ド・ボールの功績には、その後の世界各地での精力的な観測や活動も大きく影響しているかもしれない。

さらに、ヘルケゼルの功績も評価する必要がある。彼はストラスブルクで自ら高層気象観測を行うだけでなく、科学航空国際委員会の委員長を務めて、国際的な確執-特にドイツとフランス-を緩和・仲裁した。そして、多数地点で一斉に観測を行う「国際高層気象観測日」を制定して、組織的な観測網としての高層気象観測を推進した。また、関係者を集めた会合を多数開催して、各地での観測の状況や結果などを集めるとともに報告書として後世に残した。


ロッチ
またアメリカの気象学者ロッチも1884年という早い時期にブルーヒル観測所を設立して、凧を用いた定常的な観測を行っていた。彼はテスラン・ド・ボールとアスマンの両者とも親しく、その経験から二人に対して高層気象観測に関する助言を行った。また彼はヨーロッパの高層気象観測結果や会合の内容を直ちに英語に翻訳して、アメリカの高層気象観測の発達にも大きく貢献した(Hoinka, 1997)。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1902-The international aeronautical congress, Science, Vol. 16, No. 399, 296-301.


2019年3月4日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(9) ドイツのアスマンによる発見


「リヒャルト・アスマン(その2)」で述べたように、ドイツの気象学者アスマンは1900年ころにはドイツのゴム会社と共同で薄くて軽くよく伸びるゴム製気球を開発した。しかし、ゴムの性能のためか当初は高度15~16 kmで破裂して、それ以上の高度にはなかなか上がれなかった。それでも定積気球よりは高度10 km以上まで安定して観測できた。後年には改良されて高度30 km程度までは、上昇できるようになった。
アスマンによる観測結果(Assmann, 1902)
に基づいて作成したグラフ

アスマンは1901年の4月から11月まで、ベルリンでゴム製の探測気球を用いて6回の高層気象観測を行い、それらは高度12~17 kmまで達した。そして1902年5月1日にベルリンの科学アカデミーの会合において、高度10 km以上で大気減率が急速にゆっくりとなって等温層に達するかむしろ昇温が起こっており、高度10 kmから12 kmより高い高度で暖かい大気の流れがあることは疑いようがないことを示した(Assmann,1902)。また、その際には彼はテスラン・ド・ボールがパリで500回以上の観測を行っていることを示し、アスマンはテスラン・ド・ボールの観測も同じような結果を示していることを付け加えた(Assmann,1902)。

なお、アスマンのベルリンでの発表はテスラン・ド・ボールのパリでの報告の3日後だった。アスマンとテスラン・ド・ボールは、それぞれ発表を行うにあたって相互に事前に情報を交換していたとも言われるが、はっきりとはわからない。

アスマンは、ベルリンの科学アカデミーの会合において「高層に暖かい大気の流れがある」と主張した。これは高層で気温が上昇する逆転層を、彼が静的なものではなく動的な大気の流れとして捉えていたためである。「テスラン・ド・ボール」のところで述べたように、1896年から1897年に行われたICYの観測結果では否定されたものの、当時赤道域で暖められて上昇した大気が、
高層で低緯度から高緯度に向けて定常的に流れているとまだ広く考えられていた。彼が「暖かい大気の流れ」と表現したのは、このような赤道域からの暖かい大気が、観測された高層での逆転層と関連している可能性を考えていたためである(Assmann,1902)。

つづく

参照文献
  • Assmann-1902-Über die Existenz eines wärmeren Luftstromes in der Höhe von 10 bis 15 km, Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss, Berlin 24, 495-504.Thomas Birner, 2014の英訳による)

2019年3月2日土曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(8) テスラン・ド・ボールによる発見

テスラン・ド・ボールの略歴については「テスラン・ド・ボール」に示したとおりである。彼は無人気球で高層気象観測を行っていたが、1898年4月の夜間観測で初めて高度10 kmで昇温する層を観測した。同年6月8日早朝の観測でも高度11.8 km以上で-59°Cの等温層を観測した。しかし彼は温度が下がらないという測定結果を疑って、科学アカデミーへの報告では高度13 kmで-71°Cに気温を下げる補正を行った(Ohring, 1964)。

彼は1899年1月8日の夜間の観測でも上層で等温層を観測した。彼は測定器カバーからの放射を疑い、温度計をカバーの外に移した。それでも結果は変わらずやはり等温層を観測した(Hoinka, 1997)。彼は同時に複数個の気球を上げて、確認のための比較観測を行ったりもした(Encyclopedia.com, 2008)。

テスラン・ド・ボールの紙製の気球は安価で観測頻度を稼ぐことができた。それにまだゴム製の気球がない時代に、彼の軽い紙製の気球は比較的高い高度まで達することができた。彼が1902年までにパリで行った観測では、236個が高度11 km以上に達し、そのうち74個が高度14 km以上に達した。ついに数多くの観測と注意深い確認により、彼は等温層を観測の誤りや一時的な現象ではなく、実在する定常的な現象であると考えた。

彼は1901年10月のベルリンでの飛行船協会の会合や1902年3月のフランス気象学会の会合でこのことに触れた上で、1902年4月28日パリの科学アカデミーの会合でこの等温層の発見を2ページの文書で報告した(フランス中央気象台長官マスカールが代読したことになっている)。彼は大気の状態によって、高度8 kmから12 kmの間で、温度勾配が極めて緩い等温層かむしろやや昇温する層の存在を明示的に示した。彼はこう記している。

「(1) 低い層からの高度の増加による温度の減少は、すでに調査された高度域では、平均すると乾燥大気の断熱的な変動とほぼ一致する。この減少は、人々が想像するように上昇するにつれてそのまま続くのではなく、最大を通り過ぎるとそれから急速に緩やかになり、平均すると高度11 kmでほぼ止まる。(2) 大気の状況によって様々な高度(8 kmから12 kmまで)から、温度減少が極めて遅い、あるいはわずかに増加する特徴を持つ高度が始まる。この領域の厚さを特定することはできないが、現在までの観測によれば、それは少なくとも数 kmに達するようである。これはこれまで無視された事実であり、きわめて真剣に受け取られるに値する。」(Teisserenc de Bort, 1902)

つづく

参照文献
  • Encyclopedia.com-2008- Teisserenc De Bort, L?on Philippe, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/teisserenc-de-bort-leon-philippe
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
  • Teisserenc de Bort-1902- Variations de la temperature de l' air libre dans la zone comprise entre 8km et 13 km d'altitude. - Compt. Rend. Seances Acad. Sci. Paris 134, 987-989.(フランス語から英語への翻訳にGoogle翻訳を利用した)

2019年2月28日木曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(7) ヨーロッパでの組織的観測

ヘルケゼル
1896年に、国際気象機関(IMO)の中に「科学航空国際委員会(International Commission for Scientific Aeronautics)」が設置され、ドイツの気象学者ヘルケゼル(Hugo Hergesell)が委員長となった。高層気象観測に関する情報を共有・交換するこの委員会の存在とそれを先導するヘルケゼルの影響は大きかった。当時同じように気球による高層気象観測に挑んでいたパリのテスラン・ド・ボールとベルリンのアスマンの間には、フランスとドイツの国家の威信をかけた競争と誤解による確執があったようである。しかし、国際競争には組みしないという委員長のヘルケゼルの強い姿勢によって、高層気象観測に対する各国の協調姿勢が高まっていった(Hoinka, 1997)。

この国際委員会によって、いわゆる「国際高層気象観測日(International Aerological Days)」が設けられ、本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べたように、1896年11月13日の夜にその第1回が実施された。この中でストラスブルグ、サンクトペテルブルグ、パリ、ベルリンなどで同一の測定器を用いた探測気球による一斉観測が実施された。これが総観規模での高層気象観測の最初となった。この中でパリで放球された探測気球Aérophile」だけが高層での観測に成功した。上昇するにつれて順調に気温が下がり、高度12.7 kmで-54°Cを記録した。ところがさらに上った高度13.7 kmでは-52°Cに温度が上がり、降下時には再び高度11 kmで-59.8°Cに温度が下がった。この結果は国際委員会で議論を引き起こした。その結果、この記録は国際委員会によって日射などの影響を受けた値とされ、高度14 kmで観測した-53°Cは-68°Cのような形で修正された(Rochas, 2003)。

第2回目の国際的な一斉観測は1897年2月18日に行われ、やはりパリの「Aérophile」が最も高い高度10 km以上に上がったが、着地時に電柱にぶつかったため、高度10 km以上の記録は使えなくなった。第5回目の観測は1898年6月8日早朝に行われ、パリ、ブリュッセル、ベルリン、ワルシャワ、サンクトペテルブルグ、ストラスブルグ、ミュンヘン、ウィーンから有人気球13個、無人気球8個による大規模な一斉観測が行われた。これによって、初めてヨーロッパの高層気象の総観天気図を描くことができた。しかし、この観測では既に高層での気温の関心はそれほど高くなく、総観天気図の作成以外では、大気サンプルの採取による高度15 kmでの大気組成や太陽定数(日射量)の観測などが主な関心だった(Rotch, 1900)。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • J-P Pommereau-2003-OBSERVATION PLATFORMS, Balloons,1429-1438.
  • Rochas-2003-L'invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52.(Google翻訳を利用した)
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge, pp. 184.


2019年2月26日火曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(6) ドイツのアスマンによる観測

1892年のフランスのエルミートとブザンソンによる探測気球の最初の打ち上げの発表の直後に、王立プロシア気象研究所高層部門(Aeronautische Abteilung des Königlich Preußischen Meteorologischen Instituts)のアスマンは、自身が発明した通風式乾湿計を高層気象観測用に強い日射の影響を受けにくいように改造した(Assmann, 1902)。また、ニスを塗った絹製の探測気球「Cirrus」を製作した

気球「Cirrus」による最初の観測は、ベルリンで1894年5月11日にドイツ皇帝ヴィルヘルムII世の出席の下で行われたが、気球は高度700 mにしか達せず、観測は失敗に終わった。2回目の試みは、同年7月7日に行われ、最低温度-58℃を観測したが、気圧計は85 mmHgまでしか測定できなかったため、その高度は本の4-8「測高公式の発見」の説明したラプラスの測高公式を用いて高度16.3 kmと決定された。しかし、換気システムの異常により温度記録に10°C程度の振動が乗った。記録には高度15 km以上でわずかな温度上昇が見られたが、加わった温度の振動のため結果はあまり信用されなかった(Rochas, 2003)。

アスマンは、翌1895年4月にも気球「Cirrus」で観測を行い、38 mmHg(高度22 km)で-45°Cとかなりの高温を観測した。しかし、彼は極端な低圧下であったためこの値は正しくないと考えていた(Rotch, 1900)。この他にも、彼は自身の指導の下で1888年から1899年にかけて有人気球で72回もの高層気象観測を試みていたが、有人観測では高度8 kmまで達したものでさえ5回だけだった(Ohring, 1964)。

つづく

参照文献
  • Assmann-1902-Über die Existenz eines wärmeren Luftstromes in der Höhe von 10 bis 15 km, Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss, Berlin 24, 495-504.Thomas Birnerの英訳による)
  • Rochas-2003-L'invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.
  • Ohring-1964-a most surprising discovery, Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.

2019年2月24日日曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)初めての無人探測気球観測

グスタフ・エルミート
測定器を搭載した無人気球による観測は、フランスで始まった。天文学者のエルミート(Gustave Hermite)と操縦士でジャーナリストのブザンソン(Georges Besançon)は、まず1891年にパリで多数の小さな気球に手紙を付けて放球し、どこまで到達するか試した。1892年10月11日には直径90 cmの気球に測定器を搭載して放球し、それはパリから75 km離れて発見された。これが無人気球による気象観測の最初とされている。

彼らはこれ以降9個の気球を放球し、中には8.7 kmの高度にまで達したものもあった。エルミートは重さ260 gの自記気圧計と最低温度計を自作し、気球に搭載した(Rochas, 2003)。ちなみにエルミートは有名な数学者チャールズ・エルミートの甥である。気球と自記測定器を用いた無人の高層気象観測は、上層の気象を探るのに極めて有用な手段であることが直ちに認識され、探測気球(sounding balloonまたはballons-sonde)として広まった。

エルミートらは翌年3月21日にはゴールドビーター(牛の腸の外膜)製の「Aérophile」と名付けた探測気球で観測を行った。出発の際の突然の強い風で急いで放球したため、測定器に日よけを付け忘れてしまった。
気球「Aérophile」 の放球の様子
(Hermite, 1893)
しかし、この時の観測結果は驚くべきものだった。高度13.5 kmで最低温度-51℃を記録し、その後昇温し始めたが放球から1時間後にインキの凍結のために温度の記録ができなくなった。記録が回復した放球から4時間後の高度約15.5 kmは-21℃となっていた(これは長時間一定高度にあったため、日射による影響の可能性がある)。その後降下するにつれて気温は下がった。5時間15分後に今度は気圧計の記録が止まったため、その後推定された高度である約13 kmで2番目の最低気温-47℃を観測した(Hermite, 1893)。彼らは高度14~16 kmの温度を、上空の強い日射によって気球や測定器が暖まった結果の観測誤差と考えた(Rochas, 2003)。しかし、アメリカの気象学者ハゼン(H. A. Hazen)は、温度上昇の開始時はまだ気球は上昇中で換気が行われており、全てが日射による影響とは限らないことを指摘した(Rochas, 2003)。
  エルミートによる1893年3月21日の記録(Hermite, 1893)
縦軸が高度と気温。横軸は時間
  
エルミートらは1893年9月27日に2回目の観測を行おうとしたが、気球「Aérophile」は森に墜落したため、「Aérophile II」を製造して3回目の観測を1895年10月20日に行った。この時は性能が異なる2台の自記測定器を搭載した。エルミートは大気により露出した方の記録を用いた。その結果は高度13 kmで上昇中に最低温度である-70℃を記録したが、高度15.5 kmでは-50℃に上昇し、気球が降下し始めると再び温度が下がり始めたが、その時測定器の時計が止まって、それ以降の記録はとれなかった(Rochas, 2003)。彼らは1896年3月22日に4回目の観測に挑んだが、高度14 kmで上昇中に記録器の時計が止まってしまい、やはり観測は失敗に終わった。

当時の探測気球による高層気象観測では、気球が高高度まで上がり、測定器や記録器が順調に作動して、田園地帯に着陸して測定器を無事に回収することは容易ではなかったことがわかる。

つづく

参照文献
・Hermite-1893-L'exploration de la haute atmosphere. Ascension du ballon l'Aerophile. L'Aerophile, 1, 45-55.
・Rochas-2003-L'invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)

2019年2月23日土曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(4) 無人気球による観測の問題点

有人気球による高層気象観測の危険性などから、1879年の国際気象委員会(IMC)においてオーストリアの気象学者ハン(Julius von Hann)は高山での観測を唱えた。これを受けてヨーロッパでは、ゼンティス(Säntis, 2500m)、ピク・デュィ・ミディ(Pic du Midi, 2859m)、ゾンブリック(Sonnblick, 3106m)、ツークスピッツェ(Zugspitze, 2962m)で観測が行われた。ヨーロッパ以外でもアメリカのワシントン山(Mount Washington , 1918m)、パイクス・ピーク(Pikes Peak, 4300m)、日本の富士山(3720m)などでも観測が行われた。しかし山岳での通年の観測は困難であり、さらに山岳は独自の気象条件から、山岳付近の大気は完全な自由大気(地表の影響を受けない大気)ではないことがわかってきた(Hoinka, 1997)。


気球「Phoenix」での飛行の様子
そのため、再び地上から有人気球を用いて高層気象観測が試みられるようになった。1891年にドイツではプロシア王立気象研究所(Königlich Preußischen Meteorologischen Instituts)やドイツ陸軍気球隊によって、有人気球観測が行われるようになり、それをドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II)が支援した。1891年にはアスマンがアメリカの気象学者ロッチ(Lawrenc Rotch)やドイツの気象学者ベルソン(Arthur Berson)を乗せて、温度計の比較のためベルリンで気球観測を行った。1894年12月4日にはベルソンは気球「Phoenix」で当時最高の高度9 kmにまで達した(Rotch, 1900)。


有人気球による気温の観測例(Rotch, 1900)
横軸は気温(華氏)、縦軸は高度(フィート)。
低い方からハゼン(1887年)、グレーシャー(1862年)、
ベルソン(1898年)、ベルソン(1894年)
しかし、有人気球観測の費用や安全を考えると、もっと手軽に自由大気を観測できる手段が必要だった。そのため、自記測定器を搭載した無人気球が高層気象観測の有力な手段と考えられた。当時の気球はワックス紙やゴールドビーター(牛の腸の皮)、加工絹を使った開口式定積気球だった。これらの観測気球は重量と浮力との平衡高度で上昇を止め、気球内ガスの冷却や減少、結露による重量増加などにより風に流されながらゆっくりと下降した。着地点はしばしば放球地点から1000 km以上も離れた地点に達し、住民から連絡を受けた後、そこから自記測定器を回収する必要があった(Hoinka, 1997)。

有人観測も含めて初期の気球観測にはさまざまな問題に直面した。気温を測定するには日射や気球本体からの放射の影響を防がなければならなかった。また上昇・下降しながら観測するため、測定器の応答速度が遅いと異なる高度の気温を記録することになった。逆に気球の動きが遅いと、空気が測定器付近に滞留することもあった。そのため、気温や湿度の測定には感部の適切な換気が必要だった。観測データはそれらを考慮して、様々な補正が行われて使われた(Rotch, 1900)。

また、上空の寒気、強い日射、着陸時の衝撃から守る必要があるため、測定器類には単純で堅牢な構造とその適切な保護が必要だった。そのために本の4-7「メテオログラフ(気象自動記録装置)」で述べたように、1890年頃フランスのリシャール社が、時計で回転するドラム紙に気圧や気温などを同時にインクで記録するバロサーモグラフ(自記気圧・温度計)を開発すると、それが高層気象観測にも用いられた。ただし高空ではインクが凍ることがあるため、回転ドラムにすす紙をセットして針でひっかいて記録するなど工夫して使われることもあった(Rotch, 1900)。
リシャール社のバロサーモグラフ
Baro-thermograph of Richard. Rotch, 1900)

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.


2019年2月21日木曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3) 本格的な観測の始まり

キュー観測所
19世紀の半ばに気球を用いた気象観測を行ったのはイギリスだった。イギリスのキュー観測所(Kew Observatory)のウェルシュ(John Welsh)は、1852年の8月から11月にかけてロンドンのボクソール(Vauxhall)で有人気球を使った気象観測4回行った(Hoinka, 1997)。フランスと同様にこれらの観測の目的は、種々の高度での気温と湿度の状態の決定だった。この時の気温観測には初めて換気装置付きの温度計が使われた(Rotch, 1902)。ウェルシュは高度3.7~7 kmまで到達し、気温が高度とともに単調に減少することを示した。この他に、種々の高度の大気サンプルが分析のために集められ、雲から反射される日射が偏光していないかも調べられた。そして、各高度の気温などの詳しいデータは1853年に「哲学紀要(Philosophical Transactions)」に発表された。本の8-1-1「気温減率の定式化の試み」で述べたように、この観測データからケルビン卿(ウィリアム・トムソン)の大気減率の理論が現実と合わないことがわかり、それが修正されるきっかけとなった

グレーシャー
本の8-4-1「有人気球による大気観測」で述べた1862年9月5日のイギリスの気象学者グレーシャー(James Glaisher)らによる気球による高層気象観測時に起こった事件(詳しくは「嵐の正体にせまった科学者たち」(丸善出版)の第3章参照)などによって、高空では呼吸のために酸素が必要になることがわかった。それ以降も、彼は1862~1868年におよそ30回の飛行を行った。彼の観測目的は、大気の温度と湿度状態の決定、水銀気圧計とアネロイド気圧計の比較、大気電気の状態とオゾン試験紙による酸素状態の決定などだった。また研究の付随的な目的として、大気の構成、雲の形と厚さ、大気の気流、音響的な現象の観測などもあった(Rotch, 1900)。ただ、グレーシャーは換気装置付きの温度計があったにもかかわらず、実験の結果不要と考えて換気装置付きの温度計を使わなかった(Rotch, 1900)。

その後、フランスでは化学者で気象学者でもあったティサンディエ(Gaston Tissandier)や天文学者のフラマリオン(Camille Flammarion)などが有人気球で高層気象観測を行った。1875年4月15日にティサンディエらが行った高層気象観測は、高度8500 mに達したが酸素不足やひどい揺れなどにより、彼はかろうじて助かったものの同乗した2人が死亡した(Rotch, 1900)。当時は携帯できる酸素ボンベや調圧器はなく、酸素を持って行ってもそこで十分に機能するとは限らなかった。

この後、有人気球を使った高層気象観測はいくつかの例外を除いて、1890年代まであまり行われなくなった。また、高層気象観測(4)で述べるように、ゴンドラによる下層空気の持ち上げ、上昇速度に対する測定器応答の時間差、強い日射の影響などで、観測された値もあまり信頼できないものがあった。なお、グレーシャー、フラマリオン、ティサンディエは、有人気球による気象観測の状況などを「Travels in the Air」という本にスケッチ入りで残している。
フラマリオンが観測した月の暈
 (Night of 14-15 July, 1867)「Travels in the Air」より

また当時、無人の紙製の測風気球(pilot balloon)をつかって風向・風速を測ることも行われた。気球を複数のセオドライト(経緯儀)で三角測量を行って追跡することによって、高度と風向・風速を測定した。ただ、昼間の晴天時しか観測できなかった(ランプを搭載して夜間観測が行われることもあった)。また雲の上になったり、放球地点から離れ過ぎると追跡できなかった(Hoinka, 1997)。

1891年にはフランスのボンバレ(M. Bonvallet)がアミアンからはがき付きの測風気球を97個の放球し、気球60個の落下位置を調査したこともあった(Rotch, 1900)。また、ゆっくり燃える導火線に複数のはがきを結わえて、飛行の途中で一定時間毎に落下させて、拾った人に送ってもらうことによって、はがきの回収地点から気球の航跡をたどる方法も使われた。無人気球に自記測定器を搭載して、気温の鉛直分布の観測を行うことはまだできなかった。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1900-The international aeronautical congress at Berlin. - Mon. Wea. Rev. 30, 356-362.

2019年2月18日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要

気象学において、地上気象観測と同じように重要な位置を占める観測が高層気象観測である。これからわかった高層気象の規則性は大気力学の発展を後押しし、数値予報の発達などにも大きな影響を与えた。現在においても、高層天気図は天気予報に必須となっている。本において地上気象観測については、測定器の発達から各国の観測網、気象予報体制の整備までかなり詳しく説明した。しかし、分量の制限などで高層気象観測の始まりと成層圏の発見については、まだ説明が十分とはいえない部分があるので、いくつかに分けてまとめて補足したい。

ここ(1)では、まず概要だけ記しておく。本の8-4-1「有人気球に大気観測」に書いたように、18世紀末の気球の発明の後、しばらくは上層大気の探検的な意味合いで気球が使われて発達した。19世紀後半になると、気球などは空中での移動や偵察の手段として考えられるようになり、各国で飛行船や人力を含むグライダー・軽飛行機の開発が熱心に始まった。それは1900年の大型硬式のツェッペリン飛行船と1903年のライト兄弟による飛行機の発明につながっていった。しかし、それらは大気の低層で人などをいかに多く搭載して安全になるべく速く移動できるかが焦点だった。 

高層気象観測の気球はそれらとは少し目的が異なった。高層気象観測ではなるべく高い高度まで上がるという要請と、その途中のさまざまな高度で連続的に気象観測の記録を取りながら飛行する必要性があった。そのため、気象観測用の気球は、一般の飛行船とは異なる独自の道を歩むこととなった。当初気球観測には人が乗って結果を記録・確認する必要があった。そのため気球観測用のゴンドラは「若い気象学者を育てるゆりかご」といわれた時代もあった。 

しかし、高層では乗っている人間が酸素不足に陥って命に関わるという危険性がわかった。当時高空で人間に安定して酸素を供給するのは簡単ではなく、重い人間を乗せる気球の浮揚力と人間の安全性を考慮すると、高度10 km程度が有人気球が上れる限界と考えられた。そのため、軽くて手軽な自記測定器が発明されると、軽い無人気球による観測が主流となった。しかし、自記測定器は強い日射や低温の影響など気球観測ならではの特殊な環境のため、常に正しく動作・観測するとは限らなかった。そのため、安全性やコストからはなるべく無人気球による観測を行うが、測定の信頼性の確認は有人気球で行うことも19世紀末まで残った。

20世紀に入ると、高層気象観測はリヒャルト・アスマン(2)で述べたゴム製の気球と信頼性の高い自記測定器によって、専ら無人気球で行われるようになった。それでも観測結果を得るためには、住民らの協力によって自記測定器を回収する必要があった。しかし1930年前後のラジオゾンデの発明により、回収の必要がなくなり、観測と同時にリアルタイムで結果がわかるようになった。

その後戦争などの影響もあって、本の10-1-2「高層気象観測の拡大」で述べたように、高層気象観測の場所と頻度は劇的に増えて、本の9-5「高層の波と気象予測」で述べたように、上層の観測結果から大気力学に関する重要な発見が起こり、それは地上の気象に影響を及ぼしていることがわかった。また高層気象を使った考え方は数値予報などを通して、日常の気象予報を変えていった。

ここで、参考文献について述べておきたい。本の「気象学と気象予報の発達史」もそうだが、歴史上のことなので基本的に過去の文献をもとに、なるべく原典を確認して記述するようにしている。しかし手に入らない、あるいは翻訳できないものもある。原典を参考にした文章の2次引用を行う場合は、その内容についてなるべく複数の文献を確認しながら記述している。しかし同じ事象について書かれた複数の文献の内容が一貫しているとは限らない。信頼性を絞りきれない場合は、その項目の記述を止める場合もある。

一つ例を挙げる。「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)」で述べることになると思うが、1893年3月21日のエルミートらによる高層気象観測結果について、Rochas(2003)には、「13,500mで最低温度-51℃を記録した」と書かれていた。一方、松野(1882)では「気圧103mmHg(高度16km)で気温は-21℃であった」と書かれていた。そのまま無条件に採用することも可能だが、この高度において2500 mの高度差で30℃も気温が変わるだろうか?という疑問が湧いた。著者の思い込みや印刷時の誤植の場合も結構あるからである。

結論から言うとどちらの記述も正しかった(記録値が大気の実際の状態を反映しているかは別問題である)。それはこの場合は原典を見ることができて、そのエルミートの論文にグラフが付いており、このグラフから両者の記述に矛盾がないことがはっきりした。このグラフはエルミートの観測結果を述べる際にブログに掲載する予定なので、確認していただきたい。

本やブログでの記述は、不十分な部分もまだあるだろうが、中身についてそういう吟味を行っていることを理解していいただければ幸いである。

つづく
 

参照文献

  • 松野-1982-成層圏と大気波動の研究をめぐって, 天気, 29, 12,3-22.
  • Rochas-2003-L’invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)

2019年2月16日土曜日

テスラン・ド・ボール

フランスの気象学者テスラン・ド・ボール(Teisserenc de Bort)は、農務大臣を父に持つ資産家の家に生まれた。彼は病弱だったため、南フランスのカンヌに滞在した際に気象学に興味を持った。本の6-2-3「ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行」に書いたように、1878年にマスカール(Eleuthère Mascart)を長官とするフランス中央気象台(Bureau Central Météorologique)ができると、彼は直ちにそれに参加し、一般気象サービスの責任者となった。そこで彼は地球物理学の全球規模での理解を得るために、フランスの植民地や船などで気象観測を行った(Fonton, 2004)。
テスラン・ド・ボール

彼は大気循環や総観規模気象に興味を持ち、数々の解析を行って1886年に気象の活動中心(centers of action)という概念を生み出した。これは年平均気圧からの月偏差などを調べることによって、海陸分布や地形などによる長期間持続する特徴的な気圧分布を示したものである。例えばアゾレス高気圧やシベリア高気圧、アイスランド低気圧などがこれに相当する。これは、後年アメリカで活躍したスウェーデンの気象学者ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)などによる長期予報のための考え方に影響を与えた。

地球規模の高層風を調べるため、国際気象機関(International Meteorological Organization: IMO)が、1896年から2年間の国際雲観測年(International Cloud Year: ICY)を開始すると、テスラン・ド・ボールは私財を投じて、パリ郊外の丘陵トラペス(Trappes)に3ヘクタールの広大な敷地を持つ気象力学を解明するための観測所(Observatoire de météorologie dynamique)を設立した。彼は構内に写真機付きの経緯儀2台を離して配置し、電話線で結んで雲の高度や動く速度・方角を観測したりした。さらにIMOICYの観測結果を出版する際に、資金がなかったためその経費を負担した(Encyclopedia.com, 2008)。この高層風の観測結果は、本の8-3「地球規模の大気循環」に記したように、それまで知られていた大気循環による地球の熱収支に大きな問題を投げかけることになった。

1898年にテスラン・ド・ボールはそこで高層気象観測を開始した。当初は自記記録装置の回収が容易な凧を用いたが、フランス中が結果を知りたがった有名な「ドレフュス大尉のスパイ事件」の裁判の日に、凧のピアノ線が電信線を切る事故を起こした(Ohring, 1964)ためか、途中から探測気球による観測に変わった。彼は高層気象観測にさまざまな工夫を凝らした。

当時ドイツのアスマンらが気球の材質に重いゴールドビーター皮や加工絹を使ったのに対して、テスラン・ド・ボールはワックスなどを塗った軽くて安価な紙を用いた。彼はファンによって換気を行う洋銀製のきわめて敏感な温度計を造った。それは温度の変化にとても敏感ではあるが、衝撃には強く、急速に温度が換わる層を通過する探測気球に十分に適応した(Rotch, 1900)。
 
それまで他の観測所では屋外で気球にガスを充填して放球していたため、少しでも強い風が吹くと高層気象観測ができなかった。彼は敷地内に大きな回転する充填庫を作って、屋内で気球に水素を充填できるようにした上で、風向に応じて充填庫から屋外に気球を出す向きを変えることができるようにした。
 
トラペスでの気球放球の様子
(http://www.meteo.fr/interdso/Implantation/Trappes/Historique/ima-Hist/ballon1nb.jpg)

 
それと安価な紙製の気球によって、他の観測所に比べて観測頻度が格段に向上した。また、気球が遠くに風で流されないように、一定時間後に下部の気球からガスを抜いて上部の気球をパラシュート代わりにして落下させる装置なども考案した(Fonton, 2004)。

彼は1902年に高度10 km以上で等温層を発見したことを発表し、1908年にはそれを成層圏と名付けた。彼はその後もオランダに高層気象観測所を設置したり、1905~1906年にかけて大西洋上で貿易風の観測を行ったり、1907~1909年にかけては北極圏キルナ(Kiruna)での観測を精力的に主導したりした。1908年にはイギリス王立気象学会から成層圏の発見に対してサイモン・メダルを授与された(Shaw, 1913)。彼はフランスを高層気象観測の先端国に育てたが、1913年に亡くなった。

(次は、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1)

参照文献

  • Fonton-2004-Clouds, sounding ballons and stratosphere; Teisserenc de Bort: a life in Meteorology, http://www.meteohistory.org/2004polling_preprints/docs/ abstracts/fonton_abstract.pdf
  • Encyclopedia.com-2008- Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard Assmann.
  • Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.
  • Shaw-1913-LEON PHILIPPE TEISSERENC DE BORT, Nature, No.2254, Vol.90, 519-520.

2019年2月5日火曜日

リヒャルト・アスマン(その2)

 ドイツ気象局にいたアスマンは、1892年に「航空学推進のためのベルリンドイツ協会(Deutscher Verein zur Forderung der Luftschiffahrt zu Berlin)」によって進められていた科学目的のための気球観測の計画を引き継いだ。ドイツでの有人気球観測は、1893年3月1日に始まった。搭載した測定器は水銀気圧計、毛髪湿度計、通風式乾湿計と単純な放射測定装置から成った。彼は1895年3月1日にドイツ皇帝(ヴィルヘルム II世)の視察の下で有人気球フンボルトに搭乗して高層気象観測を行った[1]。その後アスマンの強い提案によって、王立気象研究所の第4番目の部門として高層気象観測所が1899年にベルリンに設立された。アスマンは、測定器を搭載した凧と係留気球による定期的な上層観測を推進した[2]。一方で、ヨーロッパでの気球観測は1890年代後半には無人の探測気球(sounding balloon)による観測へとなっていった
気球「フンボルト」

 当時使われていた気球は、ニスやワックスを塗った紙や皮製の開口式定積気球で、高度が増加するにつれて上昇速度が小さくなり、一定高度まで上昇した後に揚力を失ってゆっくり下降した。しかし着陸までに時間がかかるため、風で流されて放球場所から極めて遠くに運ばれることも珍しくなかった。1886年にドイツの気象学者パウル・シュライバー(Paul Schreiber)は気球にはゴム気球を使うべきとの提案を行っていたが、それは忘れ去られてしまっていた。アスマンは1900年頃にドイツのゴム会社コンチネンタルとともに、薄くて軽く良く伸びるゴム製の気球を開発した[3]。
 
 アスマンの密閉式ゴム製の探測気球の特徴は、安価で使い捨てできたこと、平衡高度になることがないため膨張して破裂するまで上昇できることと、そのため同じ高度に留まることによる日射や換気不足の影響を受けないことだった。また、短時間で上昇して破裂するため風に流される距離が少なく、パラシュートを使って観測地点からそれほど遠くない地点で自記測定器を回収できた。これら数多くの利点があったことから、高層気象観測は定積気球に換わってゴム製気球によって世界各地で広く行われるようになり、それは今でも続いている[3]。
気象庁で行われている気球を用いた高層気象観測
(気象庁提供)


 アスマンは1900年以降は、ベルリンでこのゴム気球を用いた高層気象観測を行い、6回の観測が高度11 km以上に達した。1902年5月1日にアスマンはベルリンの科学アカデミーに、自身が発明したゴム気球に通風式乾湿計を搭載して、高層で暖かい気流を観測した証拠を示した[4]。これはテスラン・ド・ボールがパリの科学アカデミーに高層での等温層の観測を報告した3日後だった[3]。
 
 当時ベルリンで行っていた凧観測では、時折失敗した凧観測の壊れたロープが、電線や電話線、路面電車のケーブルの上に落下した。そのため、観測所をベルリンの南東およそ100 kmのリンデンベルク村の近くの小さい丘に移転させることになった。本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べているように、リンデンベルクに独立した科学機関として王立プロシア高層気象台(Das Königlich-Preußische Aeronautische Observatorium)が建設された。1905年10月16日にドイツ皇帝自ら立ち会いの下で開所式が行われ、自由大気の風、温度、湿度の鉛直分布の系統的な観測が行われた。そのような上層の気象情報は、科学的な要請だけでなく急速に発達しつつあった航空学の進展のためにも必要だった。そのため、航空機パイロットに対する無線を使った気象警報サービスがアスマンによって組織された。リンデンベルクにその本部を持つこの観測網は、25の測風気球観測地点と郵便局と電報局の600の雷雨の報告地点を持ち、1911年にその活動を開始した[2]。

 

1905年10月のリンデンベルクの高層気象台の開所式での気球室でのカイザー・ヴィルヘルム2世とアスマン教授(左上)。

 
 アスマンは1917年に夫人を亡くして非常に力を落としたが、ギーツェン大学はアスマンを名誉教授とした。彼は1918年5月28日にギーツェンで亡くなった。享年74歳だった。アスマンは、実用的な乾湿計、便利な高層観測用ゴム気球を発明し、それらは高層気象観測の信頼性や頻度を変えて、高層気象学の水準を向上させた。現在リンデンベルクの高層気象台はアスマンの功績を称えて、リヒャルト・アスマン気象台という名称になっている。

 また高層気象観測結果の解析を通して成層圏の発見にも大きな貢献を行った。本の9-4-1「日本の高層気象観測」で述べているように、日本の初代高層気象台長となった大石和三郎は、1912年からリンデンベルク高層気象台に留学してアスマンから親しく教えを受けた後、高層気象台を開設している。日本の高層気象観測はアスマンが元祖ともいえる。

(次はテスラン・ド・ボール

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard
[3]HOINKA, K. P.-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
[4]Assmann-1902-Uber die Existenz eines warmeren Lufttromes in der Hohe von 10 bis 15 km. - Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss. Berlin 24, 495-504.

2019年2月4日月曜日

リヒャルト・アスマン(その1)

 アスマンは気象の多分野で活躍したドイツの気象学者で、本の4-5-3「乾湿計」、8-4-2「気球による高層気象観測」、8-4-3「成層圏の発見」、9-1-5「航空の発展と気象学」など各所で出てくる。逆に一人の人物像として捉えにくくなっているので、ここで彼の経歴をまとめて補足しておきたい。
 
 リヒャルト・アスマン(Richart Assmann)は1845年4月14日にドイツのマグデブルグ市で生れ、1865年にブレスラウ大学で、医学を専攻した。初めはフライエンヴァルデ(Freienwalde)で医者を開業し、後に郷里のマグデブルグに移った。1869年にはベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学から医学博士の学位を受けた。しかしアスマンは気象学に興味を持っており、フライエンヴァルデで医者をやっていた頃から、そこの戦争記念塔の上に小さい観測所を設け、自記測定器で記録をとっていた[1]。その頃、アスマンはハンブルグのドイツ海洋気象台(Deutsche Seewarte)を含むドイツ気象局を訪問し、そこで有名な気象学者ウラジミール・ケッペンに紹介され、生涯連絡を取り合う仲となった。[2]

アスマンの写真
(http://www.wetterdrachen.de/images/assmann.jpg)

   1879年に、アスマンは故郷のマグデブルク市へ戻った。彼はそこで同級生で地元新聞「Magdeburgische Zeitung」の所有者で編集者だったアレキサンダー・フェーバー(Alexander Faber)と偶然出合った。フェーバーは自身の新聞に気象報告を提供するための測候所の設立を考えていた。アスマンは医者を止めて1881年にマグデブルグで農業気象のために協会を設立することとし、その協会は直ちに中部ドイツに250か所以上の観測点を持つネットワークを開設した。1884年には「天気」(Das Wetter)という気象学に対する人々の関心を向上させるための一般向け気象学誌も刊行し始めた。[2]


 
 

通風式乾湿計の外観(上図)と内部(下図)
気象庁の気象観測ガイドブックより

 1884年にアスマンはハルツ山地の最高峰ブロッケン山(Brocken, 1141m)で雲物理の観測を行い、顕微鏡を用いて雲粒子が液滴なのか泡なのかという疑問を完全に解決した。彼は、ハレ大学の無給の大学講師として講義を行ったりしたが、1885年にはハレ大学から中央ドイツの嵐に関するテーマで2個目の博士号を受けた[2]。1886年に、アスマンはベルリンの近くの王立気象研究所の職員となって、雷雨と極端現象に関する部門を率いた。本の4-5-3「乾湿計」で述べたように、ここでアスマンは、観測において放射や換気不足の影響を受けない通風式乾湿計(Aspirated psychrometer)を発明した[2]。これはその後地上観測や高層気象観測における乾湿計のスタンダードとなり、今でも使われている。

つづく

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard